・命の木であるイエスさまにつながることで、豊かな実を結ぶことができる恵みを知る。
・譬えの中で、父なる神が農夫、イエス様がぶどうの木、私たちはぶどうの木につながる枝だと語られています。そして、9節の「わたしの愛にとどまりなさい」と語られている「愛」は聖霊と考えることができます。つまり、神さまとは人間と無関係におられるお方ではなく、人間へと働きかけ、命を与え、成長させ、実を結ばせてくださるためにお働きくださるお方なのです。
・私たち自身がぶどうの木ではないということが大切であり、枝は木につながってこそ生かされて生きることを知るのです。しかし、私たちは自分自身を木と思い、自らの力で実を結ぼうとしますが、そこからは真の愛の実は生まれてこないのです。
・ヨハネ福音書はメノーという言葉を強調します。これは「つながる」「とどまる」と訳されていますが、信仰とは正に主イエスという真のぶどうの木に「つながり」、そこから離れずに「とどまる」ことが大切だということが表現されています。
・聖書の中で「ぶどうの木」というのはイスラエルを指すのによく用いられる表現です。乾燥した気候であるパレスチナでは貴重な果樹で、ぶどうは喜びと楽しみの象徴でした。またドライ・フルーツとしても重宝されました。神さまにとって喜びと楽しみの「ぶどう」としてのイスラエルでしたが、彼らは繰り返し神さまを裏切り悲しませる存在でした。しかし、イスラエルの民は、自分たちこそは真のぶどうの木であると考えていたのです。ですから、自分たちが木ではなく枝であると聞いたときには驚いたに違いありません。
皆さんは果物の中で何が一番好きですか? 神さまは、きっと「ぶどう」が一番好きだったようです。だって神さまがぶどうを大切に育てる農夫、イエス様が「わたしは真のぶどうの木」とおっしゃるほどですからね。
聖書の中で「ぶどうの木」というのは愛する者・大切なもの(イスラエル)を表現する言葉です。でもイスラエルの人々はいつも神さまを悲しませるようなことをしてしまいました。それでも、自分たちこそは真のぶどうの木であると自惚れていました。ですから、イエス様のお話しを聞きながら弟子たちはびっくりしたと思います。主イエスがご自分を真のぶどうの木、あなた方はその枝であると語ったからです。
「枝」というのは、あまり嬉しい譬えではありません。ぶどうの栽培は多くの手間暇を必要とします。実のなる枝と実のならない枝とを上手に剪定してゆく。枝はいつ切り取られてゆくか分からないような存在だからです。 また、ぶどうの枝は火力がなく役立たずの象徴でした。そんな枝に自分たちが譬えられたのですから、弟子たちは「ええー、それはいくら何でも」と思ったことでしょう。ひょっとすると、切り捨てられるかも知れない存在、役に立たない存在、その枝が生きるとはどういうことなのでしょうか?
最初からいらない枝、役立たない枝などなどありません。どんな枝であったとしても、農夫である神さまが豊かな実を結ぶまでに一本一本の枝に手をかけて下さるということなのです。そしてイエス様につながるというのは、この神さまの愛をイエス様を通して頂戴することなのです。
それはみんながお母さんのお腹の中にいた時、お母さんと臍の緒でつながっていたのと同じです。イエス様を通していつも神さまと繋がっているから、お祈りをする時も、最後に「イエス様によって」と祈ることが出来るのです。お母さんに抱っこすると安心できるように、お祈りをすると安心できるのは、イエス様を通して神さまと繋がっているからなのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)96番「しゅイエスは まことのぶどうのき」、改訂版60番「しゅイェスはまことのぶどうのき」。
*茶色の折り紙、紫色の折り紙をそれぞれ6等分に細く切る。
① 茶色で輪繋ぎを作り、長いブドウの枝を作る。
その両側の端を壁に止め、横に長い枝にする。
② 紫色の方は、一つずつ輪にし、その輪を4つ横に貼り合わせ、その下に3つ、その下
に2つ、その下に1つというように貼り合わせて、ブドウの実の形にする。
③ このブドウを茶色の細い紙で、枝の好きなところに繋いでぶら下げる。
ブドウの葉を作り名前を書き、自分のブドウにつける。
みんなが神さまに繋がっているブドウの木の完成!
・誰かと繋がっていたいというのは私たちの根源的な求めです。でも何に繋がっても良いわけではありません。私たちが繋がるべき真のぶどうの木とはどなたでしょうか? 真のぶどうの木と偽物との違いはどこにあるでしょうか?
・良い実を結ぶためにはどうしたらよいでしょうか? それは私たちが何か頑張ったり努力することでしょうか?