たとえ私たちの信じる思いは弱いものでしかなかったとしても、変わらず主イエスは私たちへと呼び掛けてくださっていることを憶える。
主イエスの「復活」を見て触れなければ信じられないと主張するトマスの姿は、私たち自身の姿と重なる。しかし、その懐疑的なトマスのもとを復活の主イエスは訪れる。たとえ私たち自身は力強く確かな信仰をもつことが出来ていなかったとしても、復活の主イエスの側から、私たちと出会おうと近づいてくださり、私たち人間の疑念をも超えて、主イエスは私たちに呼び掛けられていることを聖書は伝えている。
トマスという名前は、アラム語で「ペアになったもの」とか「双子」という意味のターアムという語に由来すると考えられる。11:16では「ディディモと呼ばれるトマス」と書かれているが、古代ギリシア語で双子を意味するディデュモスという語への翻訳と思われる。しかしなぜ「双子」という名前だったのかは不明。
250年頃に成立したと考えられる「使徒戒規(ディダスカリア・アポストロールム)」という文書の中には、その後のトマスがインドで宣教し、その地域に教会を設立したという記述が含まれている。現在でも、トマスの上に建てられたとされている教会が南インド、チェンナイ(旧マドラス)の近くに残されている。
先週の日曜日はイエスさまの復活の日、イースターでした。今日の聖書のお話しは、それから1週間経った日曜日のことです。弟子達が隠れていた部屋に、復活されたイエスさまがやって来られた時に、その場に一緒にいなかったトマスという人がいました。トマスは、十字架で殺されたイエスさまが、また自分達のところに来てくれるなんてありえない、だからこの目で見て、この手で触らないと信じられないと、他の弟子達に言ったのでした。トマスの言い分は当たり前のような気がします。私たちだって、その場にいたらきっとそんなこと信じられない、見て触らなければ信じるもんか、と言うのではないでしょうか。
でもそれは、イエスさまにもう会うことができないという、トマスの悲しく辛い心の声だったかもしれません。本当はイエスさまに来て欲しい、イエスさまから声をかけて欲しい、でも、こんな自分のところにイエスさまが来てくれるはずなんてない、自分はイエスさまを見ることなんて出来やしない、そんな寂しい思いだったのかもしれません。でも、そう言っている時に、イエスさまがトマスと弟子達のところにやって来て、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである。」とイエスさまはトマスに教えます。
今の私たちも、イエスさまをこの目で見ることはきっと出来ないでしょう。けれども、たとえイエスさまを見ることが出来なくても、イエスさまは私たちのところにやって来られて、私たちの心に呼びかけて、私たちを励まし祝福してくださっているのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)115番「イースターのあさはやく」、改訂版88番「イースターのあさはやく」。
イエス様は「あなたがたに平和があるように」とご挨拶しました。これはヘブライ語では「シャローム」という言葉です。みんなも、お手本を見ながら、ヘブライ語で「シャローム」って書いてみましょう。
びっくり1 みたこともない文字です。
びっくり2 右から左に書きます。
本来の格好良い書き方と、手書きでの簡単な書き方があります。まずは簡単な書き方で書いてみましょう。
自信があるお友達は、本来の書き方に挑戦してみよう!
・イエスさまの12弟子には、トマスの他に誰かいたのか聖書を調べてみましょう。
・ヨハネ福音書の中で、トマスが出てくる他の箇所はどこにあるか調べてみましょう。
・見えないけれども、私たちを励まし支える力になるものには、どんなものがあるのか話合ってみましょう。