・イエスが向いている方向と、弟子たち(わたし達)の向いている方向の違い。
・自分の姿を、客観的に見つめるために、何を基にするのか。
・メシア、救い主、神の子に対して、人々は何を求めていたのかを考える。聖書に記される弟子たちの考えは、私たちの本心を投影している。
・自分の考え方が正しいと思い込んでいないか、確認の方法は何かを見つめる。「ペトロはイエスをわきへお連れして…」イエスへの信仰を告白したペテロは、ここでは自分が主となりイエスをわきに追いやっています。
・フィリポ・カイサリア地方は、宣教活動を続けていたガリラヤ湖周辺から北に位置する場所で、群衆から離れて弟子たちだけに語りかけている。弟子教育の場と考えることができる。
・「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て…」自分の善意や熱意、理想、とは自分自身に固執していることです。この世での賞賛や報いを期待する者も同様です。それらを望む者は、キリストに従うことができません。
ペトロさんがイエスさまに対し、わきへお連れして、いさめ始めました。すぐ前に「あなたは、メシアです。」と答えたペトロさんです。イエスさまを敬っている答えをしたはずなのに、どうしてイエスさまに、受難のこと「死と復活についての説明」を言わないように伝えたのでしょうか。
皆さんは、「正義の味方」という言葉を聞いて、何を想像しますか。悪者を退治するヒーローでしょうか?どこか遠い星からやってくる侵略者に対して、戦ってくれる人たちでしょうか。自分たちを守ってくれる人を、「正義の味方」と考えることが多いと思います。では、その正義の味方が「あいつは悪者だから、懲らしめてやる」と言って、何もしていない悪者を叩いたりしたらどう思いますか。悪者から見たら、「正義の味方と言いながら、何もしない私を叩くなんてひどい」と思うでしょう。一方的な思い込みは、時として恐ろしい事態になってしまいます。
ペトロさんは、イエスさまに対し「メシアです」と言いましたが、「自分の思い描くメシアの姿」をイエスさまにみようとしていたのです。メシアが苦しみを受け、私たちの生活などを導いていた長老や祭司長、律法学者から排斥される事など遭ってはならない。イエスさまに黙ってもらいたい。ペトロは自分の理想のメシアを、イエスさまに行ってもらいたかったのです。
イエスさまが「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。イエスさまに従うときには、私たちの思いに反する悩みや苦しみが起こります。自分の願っている事、自分が良いと思うことばかりではないのです。キリストに従って歩むことは、自分の好きなことだけではなく、嫌なこと、困難なことも経験するのです。自分が嫌になりそうになる、それでもキリストに従って歩むことが、自分の十字架を背負うことなのです。その歩む道の先頭を、イエスさまが導いているのです。私たちが背負う十字架より、遥かに大きい十字架を背負って歩まれるイエスさまが、共におられます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)127番「イエスさまのじゅうじかを」、改訂版84番「イエスさまのじゅうじかを」。
<用意するもの:B5ケント紙、花びらのドライフラワー(100均にあります)、木工用ボンド>
I. B5用紙いっぱいに、十字架の枠を書きます。
II. 十字架部分にボンドを塗る。
III. ドライフラワーを散らして、お花の形を整える。
少しずつ、お花の位置を考えてデザインするときれいにできます。
※お花でなく、ちぎった折り紙を使ってもステキ!
Ⅰ 「正義」とは、どんなことを言うのか考えてみましょう。世界では、A国とB国で争いが起きたときに、互いに「我々の正義のために」と発言し、「平和をもたらす」といって紛争になります。この時の「正義」はどこにあって、何を示しているでしょうか。
Ⅱ 「自分の十字架」といわれて、何をイメージしますか?自分の犯した罪でしょうか?ひょっとしたら、イエス・キリストの存在を、自分の期待通りになるよう従わせてしまうことかもしれません。じっくり考えてみましょう。