クリスマスを迎えるにあたり、ただケーキやお菓子が楽しみだというだけではなく、イエスさまに喜ばれる子どもになる準備をしていくという視点を大切にする。
キリスト教は待つ宗教でもある。ただ待つのではなく、喜びつつ積極的に待ち望んでいく生き方とは具体的にどのようなことだろうか。子どもたちの身近な出来事に置き換えて考えてみることが出来る。
感染症の影響で、長い閉じこもり生活を過ごした経験が子どもたちにもあると思う。そこからの解放の喜びと、ともに集うために準備しなければならないことがあった、ということを想起させる説教を構成することも出来る。ただし、聖書が語るのは、わたしたちの心が神さまの前に立つ人間としてふさわしい者となるように、というメッセージである。結論部分ではそのことをはずさないようにしたい。
かつてユダヤの国はバビロニアとの戦争に敗れ、国中の人たちは捕囚の民として遠くバビロンの地に連れ去られた。望郷の念を募らせるユダヤの民に預言者イザヤは希望のメッセージを語る。解放の時は近い、そのために準備をせよと。
洗礼者ヨハネは、イエスさまが地上に来られることを予告した。そして神さまの前に正しい人間となるように人々に悔い改めを求めるため、この預言者イザヤの言葉を通して人々にメッセージを語った。
ナナちゃんとコトちゃんは幼稚園のほし組さんです。ほし組はみんなで18人でしたが、新しいクラスになってからずっとお休みしているお友だちがいました。その子の名前はフウちゃん。朝の会で、先生がひとりひとりの名前を呼んでくださるとき、フウちゃんの名前が呼ばれると、いつも全員でフウちゃんのかわりにお返事をすることにしていました。先生はいつも朝の会で、フウちゃんの病気が早くなおりますように、とお祈りをしてくださいましたから、誰もフウちゃんに会ったことはありませんでしたけれども、みんながフウちゃんがほし組にやって来るのを、ずーっと楽しみに待っていたのでした。
ある日、朝の会で先生が言いました。「みんなのお友だちのフウちゃんの病気がなおったので、明日はじめて幼稚園に来ることが出来るようになりました。明日フウちゃんは、きっと心配しながらほし組にやってくると思います。みんな、どうしたらいいと思いますか?」。
さぁ、いったいどうしたらいいでしょう。ナナちゃんとコトちゃんは相談しました。「そうだ、フウちゅんのロッカー、今まで使っていなかったら綺麗におそうじしてあげたらいいんじゃない?」「そうねぇ、じゃあわたしたちでお掃除しましょう」「そうだ、フウちゃんようこそって、みんなでフウちゃんを歓迎する絵を描いて、クラスの入口に貼ったらいいんじゃない」「すてきねぇ。みんなでかざりつけもしましょう!」。それから、病気がなおったばかりのフウちゃんのために、みんなで出来ることを一所懸命にがんばったのでした。
さて、もうすぐクリスマスがやってきます。みなさんのところにもイエスさまがやってきて下さいます。イエスさまがおいで下さるのに、いったいどんな準備をしたらいいでしょうか。イエスさまが来て下さるときに、どんなわたしだったら、イエスさまが喜んでくださると思いますか?
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)95番「イエスさまはわたしの」(先週に引き続き同じ曲です)、改訂版65番の1~2節「しゅをまちのぞむアドヴェント」 もしくは 改訂版31番「しゅよ、おいでください」。
(用意するもの:紙皿、リボン、木工用ボンド、穴あきパンチ)
子ども達と一緒に神さまの恵みを感じながら、落ち葉を集めましょう。
① 紙皿に穴あきパンチでリボンを通す穴を開ける。
② 紙皿にクレヨンなどで絵や模様を描く。
③ 拾ってきた葉っぱをボンドで自由にくっつける。
④ リボンをつけてお手軽リースのできあがり。
・神さまに喜ばれる人間とはどんな人間だろうか、出し合ってみる。
・その観点から考えるなら、今の自分は100点満点中、何点に価するだろうか。
・100点満点ではない自分のためにイエスさまは地上に降り、十字架について下さった事を覚える。