目を覚ましていることの大切さを教える。
子どもたちにはなかなかイメージのしづらい譬え話ですので、この譬え話の説明に集中することはあまり好ましいとは言えないでしょう。特に、「愚かなおとめ」と「賢いおとめ」については間違ったイメージ(例えば、何らかの行いで差別的に捉えてしまうことなど)を植えつけてしまわないように注意が必要だと思います。
この譬え話は「終末遅延」の譬え話の一つだと考えられています。初期の教会にとっての最大とも言える課題は、この「終末遅延」の問題だ、と考えられています。なぜならば、目標を見失いがちになってしまうからです。終末、つまりキリストの再臨は救いの完成の時でもありますので、その時を身近に感じている間は熱心に信仰生活が送れたり、あるいは迫害等の苦しみに耐えられても(すぐにでも救いがやってくると思っているわけですから)、それがいつ来るか分からない(本当に来るのかさえも分からない)となると当然気持ちも緩んでしまうからです。それが、課題だった訳です。しかし、そのことを子どもたちに伝えることは難しいと思います。
みんなはいつも何時くらいに寝ているの? そうだね。子どもは規則正しく早寝早起きだよね。でも、そんな君たち子どもたちにも、1年に何回かはお父さんお母さんも遅くまで起きていることを許してくれる時があるんじゃないかな。先生が子どもだった頃は大晦日の日は遅くまで起きているのを許されていた。と言っても、大抵は10時くらいになるともう眠くて眠くて寝ちゃっていたけれどもね。でもね、本当に遅くまで起きていたかったのはクリスマス・イヴの夜だったんだ。だって、サンタさんがプレゼントを置いていってくれるところを見たかったんだもの。毎年、今年こそはサンタさんを見るぞって頑張って起きていた。もちろん、お母さんはもう寝なさいって部屋に連れていってくれたけど、布団の中でずっと頑張っていた。まだかな、まだかなって思いながら。ガタって物音がすると、急に緊張してきて、サンタさんが来たかもしれないって、耳を澄ませていた。でも、結局一度もサンタさんを見ることはできなかったんだ。最初は頑張っていたけれども、気がつくと朝になっていた。そして、ベッドのそばにプレゼントが置いてあった。しまった、くそーって毎年思っていたな。
大切な時に眠ってしまっていて見逃してしまうと、本当にがっかりだよね。ちゃんと起きていれば良かったって後から後悔してしまう。今日の聖書のお話は、そんなことを言っているんだ。天の国が来て、そこに入れるチャンスがあったのに、それをうっかり逃してしまった人たちがいて、本当にがっかりしているんだ。でもね、そうは言っても、やっぱり眠くなったら寝ちゃうよね。眠いのを我慢して、頑張っても、結局寝てしまうかもしれない。さっき言った先生のクリスマス・イヴの思い出のように。実は、今日の聖書のお話では、天国に行けた人も行けなかった人もみんな寝ちゃったんだ。ただ違ったのは、備えをしていたかどうか。寝ちゃうのは仕方がないのかもしれないけれども、ちゃんと礼拝に出たり、聖書のお話を聞いたり、お祈りしたりして備えていれば、たとえ寝ちゃう時があったとしても、天国に行けるのかもしれないね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版(1987年版)89番「わたしたちは さかなのよう」、改訂版124番「あいのしゅイェスは」。
「ハンカチ落とし」の要領で、ゲームをする。3回オニになった人は、真ん中で「自分の寝坊エピソード」を話す。
天の国に入るために「目を覚ましている」ってどういうことだろう。みんなで話し合ってみよう。