神の権威とは、どこか高いところにあるのではなく、もっとも「低い」ところにあります。もっとも「低き」ところから私たちを支えて下さっているのが、神の権威です。その神の国の力を私たちの目にはっきりと示してくださったのがイエス・キリストその方です。
祭司長たちは、神殿で神さまに奉仕する祭司たちの中から、しかるべき手続きによって選ばれました。律法学者は、しかるべき教育を受けた人々です。長老たちは、社会的地位と財力があり、これもまたしかるべき手続きによって選ばれた人たちです。
「では、イエスは?」誰からも与えられていないじゃないか‥‥彼らはそう言いたいのでしょう。こうして彼らは、イエスさまのお話を聞いている民衆に対して、イエスさまの権威を失墜させようとしたものと思われます。
・「権威」という言葉のギリシャ語は、権限、権利、支配力というような意味があります。
・祭司長は、旧約聖書の律法に基づいて神殿の管理を託されているという権威を持っています。律法学者は、しかるべき教育を受けて聖書の律法を解釈し、人々に教える権威を持っています。そして長老は、おもに議会の議員を指すと思われますが、そのような民の指導者としての権威を持っています。彼らからすれば、イエスには何の権威があるのか?何も無いじゃないか?‥‥と言いたいのでしょう。実際イエスさまは、人々が慕っているけれども、さすらいの一般庶民でしかありません。何かの資格を人から与えられたわけでもないし、人から権限を与えられたわけでもありません。
交通取り締まりのおまわりさんは、交通違反者を取り締まる権限を国から与えられています。だから違反者を取り締まることができます。これをおまわりさんでもない人が勝手に取りしまりをしたら、それはけんかになるでしょう。
イエスさまは、宮清めをしてエルサレム神殿から商人を追い出したことがあります。そこで商売をしている人が、神殿を使って途方もない商売をしたり、もうけを上げてるのを見ていたからでした。宮清めの結果、もうけや面目を失った祭司長たちは、イエスさまに対して怒りが湧いてきました。
他にもイエスさまは、聖書の勉強をしたことはありませんでしたが、人々に聖書を教えていました。面白い教えなので、プロの先生である律法学者さんの話よりも、イエスさまのお話の方を人々は熱心に聞くようになりました。律法学者さんも怒りが湧いてきました。
祭司長さんや律法学者さんは、イエスさまに「何の権威でこのようなことをしているのか」と尋ねます。「このようなこと」とは、宮清めと、いま神殿の境内でこのように群衆に教えていることを指しています。
祭司長さんや律法学者さんはイエスさまに、権威、権限を問いました。その言葉の裏には、自分たちに権威があるとを言いたいのです。
それに対してイエスさまはこのようなことを言います。あなたがたは、人のためだと言いながら、自分のためにしか権威を使っていないじゃないか。そのせいで、本当に困っている人や助けを求めている人がほったらかしにされている。あなたたちは、その人たちのことを、神様から離れたけしからん人々だと見ているだろう。だけど、私(イエス)の権威は、見捨てられた人たちと一緒にいて、力を与える権威だ。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。
こういうやりとりをしていたせいで、イエスさまは十字架にかけられてしまいます。イエスさまの権威は、十字架に現れた神さまの権威です。十字架にかけられたイエスさまは、人の目から見れば無力です。しかし神さまの権威は、弱い人たちと一緒にいて、その人たちを神の国に導く力です。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
1987年版11番「すずめやはとを」、改訂版4番「つくりぬしを さんびします」
・権威(けんい)とは「力があり、頼りになり、本当にすごい」ってこと。
*下のマスの中から「けんい」という文字をさがして○でかこってみよう。
*タテヨコななめにかくれてるよ!
*残った文字をならび替えて、答えを見つけてね。
答え: ○○○○○(5文字)は、私たちの生きる力です!!
「福音」という言葉を用いて考えてみてください。福音の力は、一見、私たちの目には無力なものに映るかもしれません。もっと権威があり力があるものがこの世界に他にもいろいろあると思うかもしれません。しかし、この神の国の力こそもっとも大いなる力であり、私たち人間を解放と救いへと導いてゆくまことの権威です。経済力でもなく軍事力でもなく、神の国の力こそがこの社会の在り方を根底から変えてゆく力です。たとえ長い時間はかかっても、それこそが私たちにとっての生きる力となり支えとなってゆくでしょう。