神さまの目の付け所は、私たちとは異なっているようです。私たちは働いた分を計算します。たくさん働けばたくさんご褒美をもらえると思っています。でも、愛である神さまは、少なくしかもらえないだろうと思っている人に、目を向けていてくださるのです。
この主人は善人なのか、ただの気分屋なのか。「気前の良さ」ということが、この主人の性質を伝えます。この主人はいつくしみ深く、あわれみ深い。時間、仕事量、そうしたことで厳しく査定してしまう方ではないというのです。「恵み」という、与えられるものやことを、伝えたいと思います。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とは、ペテロの質問から生まれました。「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるのでしょうか」と思っているペテロに対し、19章16~22節にある金持ちのユダヤ人青年とのイエスさまの会話です。この青年は、良い行いによって報酬を得るというユダヤ人の律法主義に染まっているといえます。ペテロたちも。払う犠牲の大きさに応じて報酬がもらえるはずだという思考パターンになっています。私たちも打算的になり、報酬のために働くという精神になりやすいのではないでしょうか。
ぶどうの収穫期になりました。猫の手も借りたい忙しさがやってきます。だから、ぶどう園の主人は市場に出かけ労務者を雇うのが常でした。ぶどうが熟するのは秋で、その後すぐ雨期がやってきます。一日も早く、ぶどうを取り入れないと、ぶどうの品質が落ちてしまいます。たくさんの人手が必要で、一日に1時間しか働けない人も歓迎されることがあったのです。この主人の雇い方は少しでも働いてくれたら、大変助かると思っているようです。
ここに、雇われた人々がいます。五組のグループです。早朝組、午前9時組、正午組、午後3時組、午後5時組です。やっと、その日の働きは終わりました。そして賃金の支払いの時が来ました。主人の支払方法は、普通とは違っていました。「最後に来たものから順に」でした。この支払方法は、朝早く雇われた者たちにとっては期待を与え、最終的にはショックを与えてしまう方法でした。
早朝組は期待に胸をふくらませドキドキしながらもらうのを待ちました。1デナリ・・・1デナリと続きます。あれっ、増えていかないな。しかし早朝組は、自分たちは絶対多くもらえるはずだと期待を捨てなかったはずです。なぜならいちばん長く働いたからです。ところが・・・。「最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはり1デナリずつであった」のです。ここでショックを受け、主人が意地の悪い人に見えてしまい、主人に文句を言うのです。皆さんであったら、どう反応するでしょうか。
このお話を通して、主人の目の付け所を見てみましょう。イエスさまがお話しするのは、遅く来た者、午後5時組です。
私たちは、神さまが下さる恵みによって、生かされています。恵みによって神のぶどう園で働いている者たちです。1デナリでは少なすぎると文句を言うのでしょうか。
私たちは、ただ神の恵みの豊かさに感謝していたいとおもいます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
1987年版103番「どんなにちいさいことりでも」、改訂版58番「どんなに小さい小鳥でも」
・教会の中でのお仕事をみんなでする。(掃除、礼拝準備や片付け、など)その時にくじ引きで、働く時間を決める。そして、みんなの作業が終わったら、均等に分けたおやつを食べる。
・おやつを食べながら、今日のたとえ話の労働者の気持ちを話してみましょう。
・自由に意見を出し合い、今日のはなしてみようのメッセージを話しましょう。
私たちはだれも、自分たちの努力、がんばり、行いによって、救いを得、報いを勝ち取ると考えているのではないでしょうか。私たちだれもが早朝組であり、最終組でもあるのだと、そこに身を置いた時にわかります。いただく恵みを十分喜び、感謝して恵みを受け取るものでありたいと思います。