・イエス様は私たちのために十字架を背負われたこと、私たちも自分のためではなく他者のために十字架を背負う者となろう。
・自分を捨て、という言葉を“他者のために”と置き換えてみました。自分を捨てるということと、神様が私を愛してくださっているということは矛盾しません。自分のことを愛してくださる神様が、他者を愛さない訳があるでしょうか。神様が隣人を愛しているように、自分も自分を中心に置くのではなく、神様と隣人を中心に置いて歩んで行くということを伝えたら良いと思います。
・神の愛(ここでは十字架)が先立って示されているということも重要なポイントのように思います。私たちは神になるのではなく、神に倣う者になるのです。
・十字架は元来、処刑道具でした。それも政治犯、今で言うテロリストを罰するためのものでした。イエス様は政治犯として捕らえられ、殺されてしまったのです。
・ルーテル教会の十字架にはイエス様が掛けられておりません。そこにはもうおらず、復活なさったのだということを覚えるためです。
・「サタン、引き下がれ」と言われてしまうペトロですが、数節前には「あなたはメシア、生ける神の子だ」と信仰告白をしています。神のことを思わず、人間の思ってしまうということは私たちの本当にすぐそばにあるのだということが分かります。
教会には十字架がありますね。街を歩いていて十字架を見つけたら、そこに教会があることが分かります。みんなの教会にも十字架があるでしょう。どんな形をしていますか。牧師先生にお願いをして、手で触れてみてもいいかも知れません。今日聞いた聖書では、イエス様がお弟子さんたちに「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言っていました。どういうことでしょう?教会の十字架は大きくて、とても背負うことはできませんね。イエス様の言っておられる十字架とは何のことを言っているのでしょうか?
イエス様にも、イエス様の十字架がありました。それは言葉の通り、十字架にお掛かりになるということでした。イエス様は十字架に磔にされ、殺されてしまったのです。それはとても痛くて、苦しいことでした。けれどもイエス様は、私たちに同じ思いをしなさいと言っているのではありません。苦しい思いをイエス様が私たちの代わりに引き受けてくださったからです。この十字架はイエス様のための十字架ではありませんでした。誰のための十字架でしょうか。それは、私たちのための十字架でした。
私たちの十字架も、自分のためだけのものではありません。自分の十字架を背負うということは、イエス様が私のために十字架を背負ってくださったことに“ありがとう”と感謝すること、そしてイエス様が私のために十字架を背負ってくださったように、私も家族やお友達、隣の人を心から大切にして生きてゆくということです。そうやって生きてゆくとき、わたしたちの背中には目には見えないけれど確かに十字架があるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版127番「イェスさまの じゅうじかを」、改訂版84番「イェスさまのじゅうじかを」。
*十字架を作ろう
① 小枝を拾ってくる。
② きれいな色の毛糸や、ひも・リボンを使って、2本の枝を縛って固定し、十字架を作る。
*縦の一本は、神様と私たちをつなぎ、横の一本は、私たち一人ひとりをお互いに隣人としてつなぎます。どちらも、その真ん中にイエス様がいてくださることを覚え、感謝してお祈りしましょう。そして、作った十字架は、大切に持ち帰りましょう。
*お家の人と作るときは、十字架を自分の家に飾ってください。
・私たちが背負う十字架とはどういうものがあるでしょうか。
・イエス様が背負ってくださった十字架はどういうものだったでしょうか。
・十字架は私たちが自分の力だけで背負えるものでしょうか。