・大きな信仰を持ち、勇敢であることがイエス様の弟子の条件ではありません。たとえ弱弱しくとも、イエス様は私のことをいつも信じ、助けてくださるということを知る者こそが、イエス様の弟子たるのです。
・マタイ福音書はその結語においてさえ“疑う弟子”の姿を記します(マタイ28:17)。本日の日課に記される弟子たちも、疑い、狼狽する弟子たちでした。しかし、イエス様はそんな彼らを叱咤するでも見放すでもありません。彼らのそばに近寄って来られるのです。たとえ信じ切れなくなる瞬間が訪れようとも、「主よ、助けてください」と言っていいのだということをペトロの姿を通して聖書は伝えています。私たちは決して信仰の大きい者ではないかも知れない。けれど、常に私たちを見守っていてくださる助け手を知っているのです。
・船は陸から何スタディオンか離れていた…1スタディオンは185mです。陸から数百m、場合によっては数km離れていたということになります。
・弟子たちは逆風のために悩まされていた…悩むは“困窮、耐えられない程の苦痛”の意味です。病気と関連して用いられる言葉でもあります。波に悩まされている弟子たちは、苦しみに直面した者の喘ぎが反映されています。まして夜中であったであろう状況を加味すると、どれほど恐ろしかったことでしょうか。
お勉強をすること、お友達と遊ぶこと、ゲームをすること、習い事に行くこと。皆さんの毎日には、たくさんのすることがあります。自分の好きなこと、嫌いなこと、どっちでもないこと、それは本当にたくさんあります。したくないなぁと思いながら何かをするのは大変ですね。たとえば、どんなに好きなゲームでも、それだけをずっとできるでしょうか?食べることも寝ることもできないとすれば、ずっとゲームばかりすることはできないと思います。そうです、私たちは自分がしたい時にしたいことができるから、何かをしたいなぁと思うんですね。
では、何かを信じるということはどうでしょうか。自分が信じたいから信じるのであれば、もし信じられなくなってしまったら、それから先信じることはできるでしょうか。今日聞いた聖書のお話では、舟に取り残されてしまって不安(怖いという気持ち)を感じていたお弟子さんたちのそばにイエス様が近づいてきてくれました。イエス様の声を聞いて安心したペトロさんは、イエス様の方へ近づいて行こうとします。けれど、高い波や真っ暗な周りを見て怖くなってしまいました。
その時です。ペトロさんは、「イエス様、助けてください。」と言ったのです。もしペトロさんがイエス様のことを100%信じていたら、沈まなかったでしょう。無事にイエス様のところへたどり着けたでしょう。けれどそうではありませんでした。ペトロさんはイエス様のことを信じ切れなかったのです。けれど、ペトロさんが沈んでしまうことはありませんでした。イエス様が近寄り、ペトロさんの手を支えてくださったのです
たとえ私たちが100%イエス様のことを信じることができなくとも、イエス様の方は私たちのことを100%信じてくださっています。安心していいんだよ、怖がらなくていいんだよ、いつも私はあなたたちのそばにいるよ。私たちがイエス様のことを信じることができなくなる時があろうとも、そんな私たちを信じてくださっているイエス様がいつもいてくださるということは、何よりも心強い“安心”ではないでしょうか。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
旧版119番「やさしいめが」、改訂版114番「やさしいめが」。
付箋(大きめ)と筆記用具を用意する。(なければ、紙とセロテープでもよい)
① 付箋に自分がつらいと思うとき、悲しいと思うときは、どんな時か、書き出す。
(一枚に一つずつ)
② そのことが起きた時、どうやって乗り越えるのか、別の付箋に書き、それぞれの①の付箋の下に貼る。
③ 友達とペアもしくはグループになり、②の付箋を交換する。受け取った付箋に書かれてあることを読み、自分だったらどうするか考え、何か助けてあげられることがあるか考え合う。そして、別の付箋に自分がしてあげられることを書き、受け取った付箋の下に貼る。
④ 一人ではなく、いつも助けてくれる、一緒に考えてくれる人がいて、そしてイエス様がいて下さることを伝えたい。
*お家の人とするときにも、お母さん、お父さんにも付箋を書いてもらって考え合おう。
・私たちの生活の中で、不安や怖れを感じる時はどんな時でしょうか。
・そのような時、私たちはどうやって乗り越えようとするでしょうか。
・聖書に出てきた弟子たちが不安だったのは何故でしょうか。
・ペトロが沈みかけてしまったのはどうしてでしょうか。