「必ず」が意味することを知る。報いを受ける理由に気づく。
1)「絶対」とか、「必ず」とか口にすることがあるが、それらは私たちのうちからは出てこない。ただ神から出るものである。
2)「必ずその報いを受ける」とは、神が報われるという約束である。
フリッツ・アイヘンバーグというイラストレーターの作品に「炊き出しの列にならぶイエス」という版画があります。(実際に、見せることができるとよりよいですね。)「炊き出し」とは、食べることに困っている人たちに食事を提供する(あげる)ことです。
イエスさまは、人を助けたり、教えたりする方ですから、困っている人に食事を与える側にいると思います。その方が、イエスさまに似合っていると思います。しかし先の版画の中で、イエスさまは食事を与えてもらう人々と一緒にいるというのです。それもただ一緒にいるだけでなく、食事を配っている人たちの助けを同じように求めているのです。とても、大切なことを教えている版画だと思います。
今日、イエスさまは「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。「小さな者」とは、弱い立場の人たち、役に立たないと思える人たち、自分とは関係がないと思っている人たちでもあるでしょう。先にご紹介した作品では、炊き出しの列に並んでいる人たちです。一方「大きな者」とは、強い人たち、役に立つ人たち、自分と仲良く、自分にとって大切な人たちということになるでしょう。私たちには、「大きい者」の方が大切に思えます。しかし、イエスさまは「小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれた人は、必ずその報いを受ける」と言われているのです。大きな者にすることより、小さな者にすることの方が、神さまは喜ばれるということです。このことを重ねて考えると、私たちから見て「小さな者」、つまり関係のない、弱い、役に立たないと思える人の側にイエスさまがおられるということがわかってくるのです。アイヘンバーグという芸術家の作品が、与えられる側にイエスさまがおられると表現しているのは、このことなのです。そのような人々に心を寄せて、「冷たい水一杯」というその人の必要なものを与えるとき、それはイエスさまに私たちがしたことなのです。私たちが知らないうちに、イエスさまが喜ばれることをしていた。だから、「必ず報いを受ける」のです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□77番、改訂版128番「うえているひとと」。
炊き出しは、食べ物を受け取る側にイエス様がいて、小さいものにしたことは、わたしにしたこと…という事を伝えています。人のために実際やってあげる事で、報いを受けるとは、どう言う事なのかを考えてみよう。
用意するもの:ジュースやお菓子(食品の準備が難しければ、みことばカードなど)
1. 配る人を1人決め、他のお友だちはもらう人になり一列に並ぶ。(もらう人の中にイエス様役を決める)
2. 配る人がコップに入れた飲み物をひとりひとりに渡し、もらう人は「ありがとう」と言う。
3. 何人かに渡したら、配る人を交代する。
・人に何かをしてあげた時、ありがとうと言われた時、イエス様も並んでいるのを見た時、どんなことを感じましたか?
・他に自分ができることはなんでしょう?考えてみよう。
家族にお茶を配ったり、クラッカーにジャムを塗ったり、ご飯をよそったりする。やってもらった人は「ありがとう」と言う。
普段、何気なくしているお手伝いかもしれないけれど、
・何かをしてあげた時、ありがとうと言われた時、どんなことを感じましたか?その中にイエス様がいたら、どう思うかな?
・他に自分ができることはなんでしょう?考えてみよう。
1)どうしてイエスさまは、炊き出しの列に並んでおられるのでしょうか?
2)「困っている人の中にイエスさまを見る」とは、どういうことだと思いますか?
3)私たちは、「炊き出しの列に並ぶ」イエスさまに何をすることができますか?