・前半は聖霊を送るという約束、後半はイエスと父なる神とが一つということが教えられている。ここではイエスと父なる神とが一つであり、イエスを通して神を知るということを伝えたい。
・「いまだかつて神を見た者はいません」(Ⅰヨハネ4.12)とあるように、神は見ることのできない方である。しかし、イエスを通して神はご自身を示されたのである。イエスと神はひとつであって、イエスを知ることが神を知ることである。
・「神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4.8)とある。イエスを通して、神の愛を知り、愛を受け、愛に応えて生きるということが神を知るということでもある。
・15節の「わたしの掟」とは、13.34にある「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスの「新しい掟」である。この掟を守るためには、イエスに愛され、その愛を受け入れ、愛に生かされることが何より必要だと教えられている。
・聖霊の働きについて教えられている。イエスは、私たちに父なる神を示してくださり、神と私たちを執り成してくださった方であり、聖霊は、私たちをイエスに、そしてイエスを通して神に押し出してくださる方と考えてよいであろう。
神様を見たことがある? 神様はどんなお顔をしている? 神様を見ることができたらいいなって思うかもしれないけれど、私たちには神様を見ることはできません。神様を見た人はいません。見ることができないのなら神様のことは何にも分からないと思うかもしれません。けれども、私たちは神様のことをちゃんと知っているのです。イエス様が教えてくださったからです。イエス様は、神様のことを私たちに教えるために私たちの世界に来てくださったのです。
「だけど、私にはイエス様を見ることもできない」と思うかもしれません。確かにそうです。今、こうして、みんなと顔と顔を合わせているように、イエス様と顔と顔を合わせて、イエス様を見ることはできません。だから、イエス様も分からないのかと言えば、そうではありません。自分の目で見ることのできないものであっても、ちゃんと分かっているものがあります。例えば、優しい気持ちは見ることができません。けれども優しい気持ちは分かります。誰かを大好きだっていう気持ちも見ることはできません。けれども、大好きだっていう気持ちも分かるのです。そのようにして、イエス様が私たちを思っていてくださる気持ちが分かる時に、私たちはイエス様が分かるのです。そして、イエス様が分かるということは、心の目でイエス様を見ているということ、心の目でイエス様を見ているということは、イエス様の心と私たちの心がつながっているということです。
そして、もうひとつ大切なことがあります。私たちが、心の目でイエス様を見る時に、私たちの心の目は神様も見ているということです。イエス様を見るということは、神様を見るということなのです。そして、私たちの心がイエス様の心とつながるように、私たちの心の目が神様を見ているなら、私たちの心は神様の心ともつながっていることになるのです。そのようにして私たちが神様のことを分かるようになるために、イエス様は私たちの世界に来てくださったのです。いつも、心の目でイエス様を見ていたいと思います。また、そのようにして心の目で神様を見ていたいと思うのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
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改訂版 95
目かくしをして言葉と音を頼りに目的の所へ行くゲームをしてみよう。
<用意するもの>
・目隠し用の布(スカーフ、バンダナなどを折りたたむ)
・すず、タンバリン、たいこなど音の出る物
・スタートとゴール(スタートから数メートル先)に目印をつける。まわりにぶつかる物がないように場所を空ける。
・ゴールに音の出る物を持っている人が立つ。
・スタートに目かくしをした人が立ち、ゴールの人が出す音を頼りに歩いて近づいて行く。右にそれたり、左にそれたりして歩いていたら「もっと右、もっと左、まっすぐそのまま」と言葉かけをしてゴール出来る様に助けてあげる。
・ゴールしたら次の人にチェンジする。
・イエス様は神様かな? 天の神様とイエス様について話してみよう。
・どうして神様を見ることができないのかな?