・イエス様が来られたのは、十字架にかかって死ぬことによって人の罪をゆるし、人を救うためです。
・イエスから命じられた弟子たちは、面識のない人のところにロバを借りに行くのに躊躇したと思います。イエス様から命じられたことに、勇気を持って「はい」と答えることの大切さ、という視点から語れるかもしれません。
・説教の聞き手を、ロバと重ね合わせて語ることもできるかもしれません。その場合、「目立たないけど、イエス様のために大事な用事に用いられる」というメッセージができるかと思います。
・イエス様は、ご自分が十字架にかかる時が目前に迫っているときに、今日の出来事をなさいました。ロバに乗らなくてもエルサレムに入れますし、十字架にかかることだってできたでしょう。あるいは奇跡的な力を用いて、ロバよりも立派に見えるな軍馬を調達して格好よいパレードを演出することができたかもしれません。ところがイエス様は、身近なロバを選ばれました。大変なことが起ころうとしているときにも、神様はユーモアを忘れない、ということかもしれません。
・「名」が実体と結びついているという考えは、当時のイスラエルでも、今の日本でも同じです。当時のイスラエルでは、名を呼ぶことで名に潜む力が作用を及ぼすと考えられていました。名は、その人の人格を表し、その人の一部でした。神さまは、「名」を知らせるというやりかたでご自分を人間に示します。旧約聖書では、父なる神(固有名詞「ヤハウェ」)は点におりながら、地上の一つの場所(エルサレムの神殿)を選び、そこに彼の「名」を住まわせた、と言います(申命記12:11, 14:23)。
・「……の名によって」という言葉は、他の人から委託を受けて行動したり語る場合に用いられます。今日の聖句に書かれている「〔イエス様が〕主の名によって来られる」とは、神さまがイエス様において現れたことを意味します。イエス様がこの世に来られた理由は、<神の愛が、神を信じる者の内にあり、彼らを守り、一つにする>という神の意志を達成するためです(ヨハネ17:11-12, 20)。
・人は、「主のみ名によって」罪のゆるしを得ます(使10:43、Iヨハ2:12)。今日の聖書箇所は、待降節(アドベント)と四旬節(レント)の両時期に読まれます。待降節に読まれるときは「イエス様が来ることは神さまが来ることだよ」というメッセージを強調します。四旬節に読まれるときは「イエス様が十字架にかかることで、人の罪のゆるしが為し遂げられる」ということを強調します。
・本箇所で群衆が「祝福があるように」と叫ぶのは、神へ感謝と賛美をする行為です。
・イエス様は、ろばの所有者とあらかじめ話をしておいてから弟子をつかわしたのではありません。イエス様はここで、王が彼の臣下の所有物を要求するような権威のある言葉で、他人のロバを貸してくれるように要求しています。
・当時、ロバは荷物を運んだりする家畜でした。生活に役立つのですが、乗って見栄えがする動物ではありませんでした。たとえば、王のパレードであれば、ロバではなく馬に乗ることが多いです。そのため、王としてやってきたイエスがロバに乗っているというのは、力の抜けたユーモラスな感じです。
・5節はイザヤ書62章11節a、その後はゼカリヤ書9章9節の引用です。後者は平和のメシアを暗示しています。
・6節の衣服を路上に敷くのは、王を迎える所作(列王記下9章13節)です。
・9節の「主の名によって来られる方に、祝福があるように」は、詩編118編25-26節参照。詩編の当該引用箇所は、巡礼の祝祭などで歌われた「ハレル歌集」(詩編113-118編)の末尾部分にあたります。