*神様は決して死ぬことはない、ハッキリとイメージする。
*「信じる者は、だれも、決して死ぬことはない。」とは、神様が語られたお言葉。
死ぬことはない、とは、私たちが見たり、聞いたりしていることの外側。だれも経験したことのない内容。
わたしたちは死ぬから。だから、イエス様が何を言おうとされているのか、すべてを理解できない。
*わたしを見なさい。そう話されたイエス様。自らで、釘穴の開いた手を見せた。イエス様の手を見た弟子たちの疑いが晴れる。「本当に復活したのだ」
*見なかったら、こういう気持ちにはなれなかった。 見せるとは語ること。見るとは聞くこと。
*復活を信じれば=私を信じれば、死は死でない。それが判るようになる。
*電気コードのように、つながりが切れてしまうと、光が灯らないでしょう。光の灯らない場所は真っ暗闇です。 神様とつながれば、光が灯りますから、暗くて怖い話にはなりません。
*人間よりも神様は大きいのです。神様と人間の関係をあらわす記号=「人間 < 神様」 となるでしょうか。
私たちが、知っていること。半径1センチの〇としてみましょう。一円玉ぐらい。
人間が知っている範囲があって、その外側には知らないがある。もっと大きな半径15センチの〇があります。 わたしの知っている〇を超えて、もっと外に大きな〇がある、けれども、それが見えないのです。
皆さんは知っていますか?動物、植物、魚などなど。生き物の命にはすべて「始まり」と「終わり」があるってこと。今日は具体的に考えてみましょう。「植物」ならば、始まりは種からです。そうだなあ。じゃあ、みんな知っているはずの稲で考えてみましょう。田んぼに植える前に、種から稲に育てられたばかりの若緑色の稲の苗は、か細く小さなすがたかたちでした。夏の太陽の光をいっぱいうけ、水と土の中から栄養を吸い上げながら、ドンドンと生育が進み、背丈が伸びて茎の数も10本ほどに増えてゆきます。そして茎の間から穂が出そろって、籾の中で「米」がふくらみ、立派な稲穂に育ちました。収穫されます。実った稲。最後はどうなるのかな?みんなの食べ物になります。
次は「動物」。たとえばパンダの誕生で考えてみようか?お母さんパンダから、ちっちゃい体で生まれます。赤ちゃんパンダが、ドンドン大きく成長して、ジャイアント!になります。だけど最期には、死んでしまいますね。
じゃあ、「人間」について考えてみましょう。まず、お父さん・お母さんのお父さん・お母さんで考えてみましょう。最近は、「じいじ」・「ばあば」って呼んだりするね。おじいちゃん、おばあちゃん。私のおばあちゃんは87歳まで生きていました。最期は、2019年に息を終えました。2019年に神様のみもとに-1932年に生まれました。だから87年間、一緒に暮らしました。もっと一緒にいたいから、悲しくて、寂しくて、お別れしたくないという気持ちにもなりました。けれども、「神様のもとに迎えられて、帰るんだ」、という聖書の約束を信じてお別れしました。
動物や植物、それだけでなく人間もです。神様につくられたすべての命が、いつの日か、最期にはみんな死んでしまうのですね。いろいろと体験しながら、このことが大人になるとだんだんと判ってきます。
けれども、(つくられた側の)人間と、(つくった側の)神様は、同じではありません。だから、父なる神様の子どもであるイエス様は、十字架にかかって息を終えたのに、復活して、お弟子さんたちに会いに来られました。死んでいる人は歩きませんから、死んでしまったままではなかったわけです。そうか!人間のように、神様が死んでしまうことはない!のです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
神様が死ぬことはない。だから、私たちの命が息を終えると、神様が私たちを迎えてくださる、という約束ができるのですね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
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改訂版 85(1,4,6)
『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイさく・え 小川仁央やく 評論社)
みんなに慕われていたアナグマが死んでみんなは悲しみでいっぱいでした。途方に暮れる中、アナグマとの思い出を語りだしました...友だちをつなぐ心や生きていく知恵や工夫を伝えあっていくことの大切さをおくりものとして残していました。アナグマが死んでもみんなの心の中に生きている...心に深くしみる感動の絵本です。
*神様について考える時、何度も、「信じる」という態度について話が出てきます。信じることの大切さについてみんなで話をしてみましょう。
*みていないけれど、信じている、毎日の中で、どんなことがあるかな?
*逆に、見ないと信じられない、何もかもそうなると、どうなるでしょうか?