*神様がお造りになった世界に、神様のお心が込められていることに気づき、世界が宿している神様のお考えに
ついて考えてみる。
*神様は、ご自分で造られたすべての生き物たち、全ての世界を見て、「極めて良かった」と満足された(創世記)。「すべて」という中身は、様々な相違がありました。色、姿かたち、大きさ、種類、などなど。
*「すべて、よし!」 つまり、神様のお考えのとおりにできあがった世界、それが相違のある光景でした。
*イエス様が目の見えない人の目に、泥を塗りつけた。それが、始まり。原点回帰を想起させる泥。
神様が人間を創造された最初の物語にも「泥」=土の塵で人を造った。があった。
*イエス様が、生まれつき目の見えない人の目に、泥を塗りつけた。そこから示された世界は、神様の世界のはなし。
イエス様が、生まれつき目の見えない人の目に「泥」を塗った。えっ、泥って濡れた土のことですから、顔につけるなんて、ヒドイいたずらですか?なんでそんなことしたの?って感じてしまうでしょうか。神様が人間を最初におつくりになったときのことが、創世記の物語に書いてあります。「主なる神様は、土の塵で人を形づくり、その鼻に、命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」。神様の手触りを人間が感じるもの、それが泥のようです。
さて、そんなふうに、神様はご自分で世界を造られた後で、すべての命あるものたちを見わたして、「とっても良い!」と、出来上がりに満足されたんですって(創世記1:31)。「すべての命あるものたち」。そこにはいろんな違いがありました。色でいえば、明るい・暗いがあり、姿かたちでいえば、小さい・大きい。うごきかたなら、遅く動く命・素早い命、木のように動かないで一か所に立つ命、身体でいえば、重たい命、軽い命。力でいえば、弱い命・強い命。なかには足が何本もある命、魚のように足がない命、口で話す命・話さない命がいました。種類、形、色。みんなそれぞれに違っていました。バラバラだったのです。でもね、それが神様のつくられた世界でした。だから神様は、ご自分が造られた世界を見わたして「とっても良い!」と満足されました。ほんとうに神様のお考えになったとおりにできあがったから、喜ばれたのでしょう。
生まれた時から、目が見えない人について、質問を受けたイエス様は、「神様のお考えになった世界のなかに、神様のお心の通りに、目が見える人、見えない人、両方がいる。これは神様のお考えによるのだ!」とお答えになられました。
でもね、神様のお言葉が聞こえなくなり、神様のお心が忘れられると、私たちは、見える・見えないという、違いや差が気になり始めて来るようです。「この人が、目が見えないのは誰のせいですか?」 ...誰のせい?って、悪いことをしたのは誰ですか?って考えのように聞こえますね。神様のお言葉とは全然違います。
神様のお言葉が私たちの心とつながっていないと、「すべての命よし!」という支えの言葉が聞こえなくなって、たちまち すぐに、いのちの比べっこがはじまってしまいます。これは大変!繰り返し、神様にお祈りして、神様のお言葉が聞き続けましょう。そうすれば、「あなたもわたしも、大切な人」だと、ハッキリと見えるようになっていくはずですから
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
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改訂137
<用意するもの> 画用紙(大きさは自由)、折り紙、のり
①画用紙いっぱいにハートの形を描く。
②好きな色の折り紙を小さくちぎる。(何色かづつ)
③画用紙のハートの中にちぎった折り紙をペタペタ貼る。
*自分の大切さが、ハッキリ見えた、って感じたことがありますか?それはどんな時でしたか?
*命の大切さ、って、どこで測るんだろうか。 普段、私たちは、どう考えているんだろうか?