イエスの変容は神の栄光を現す。その栄光は十字架の死と復活を通して現される栄光である。
栄光という言葉は、輝かしい功績、名誉という意味(大辞泉より)。しかし主イエスの栄光、つまり神の栄光は十字架の苦しみを通して現されている。通常、人間が考えるような仕方ではない方法で神の福音は告げられている。この十字架の苦しみの意味を吟味することでよりいっそう子どもたちに伝わるメッセージになる。
教会暦では顕現節の最終主日となる。この主日を境に主イエスの受難への道を歩み出す。
その先触れとしての変容の出来事。
今日は「主の変容」という礼拝です。聖書で読んだようにイエス様の姿が白く輝く不思議な出来事が起こります。この不思議な出来事の意味は、神様の栄光を現す出来事です。
「栄光」という言葉は辞書で調べてみると「輝かしい功績」「名誉」という意味だそうです。オリンピックで金メダルを取ったとか学校の成績で1番を取ったとか、そういう時に栄光という言葉を使います。つまり「栄光」という言葉は誰よりも一番を取った、上に居るということです。
そしてこれは「私が」一生懸命練習したから私が金メダルを取った。「私が」一生懸命勉強をしたから成績で1番を取ったと考えます。私の努力や頑張りで栄光を手に入れると人は考えます。
でもイエス様がこの時現してくださった栄光はイエス様が努力して手に入れたものではありませんでした。これは神様が与えてくださった栄光です。
つまり「栄光」というのは本当は神様しか持っていないものなのです。ですから栄光とは本当は神様からしか与えられないのです。イエス様は、神様から与えられる賜物をそのままに受け取って、神様から与えられるものに純粋に頼っていくことによって人は変えられると教えてくださっています。
そして神様に変えられて、与えられることに従って生きていった最後が十字架に架かって死ぬという道でした。とても私たちにはできないことですし、そんな生き方は嫌だと思ってしまいます。きっとイエス様は、苦しい、痛い、悲しいこともあったに違いありません。それでも神様に変えられていることを信じて受け取っていったイエス様は十字架の死という悲しい出来事を通しても神様の栄光を現すことがおできになったのです。
人には不可能と思える出来事をイエス様はおできになりました。そして神様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われました。嫌な道、悲しい道、苦しい道が神様歩みなさいと言われる道を歩むこともできません。
でもイエス様の御ことばに聞くとき、できないことはできるのです。神様の子として生きることができるのです。イエス様の御ことばを聴いていることを感謝して、本当に神様の道を歩むことができますようにお祈りして参りましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
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改訂 3
小さなスケッチブックか手帳を用意して下さい。
「イエスさまのみことば手帳Ⅰ」を作りましょう。
手帳にイエスさまのみことばをかきとめる。
そして何度も声を出して読む。
みことばをおぼえる。
これから毎週分級で一つのみことばをかき加える。
神様の御言葉を聴いて、自分が変えられてできないとことできるようになったことは何か考えてみましょう。