洗礼について触れられる箇所は福音書では少ないです。ですが、ここでは私たちが洗礼を受けることが重要なのではなく、イエス様が洗礼を受け、私たちと同じものとなられたということが重要です。
洗礼者ヨハネもイエス様を「思いとどまらせようとした」とあります。それでもイエス様は近づいて来られ、洗礼を受けられました。イエス様の方が来てくださったということに焦点を当てましょう。
・洗礼を受ける、という意味のバプティゾーという言葉は、「沈める」という意味があります。一旦沈んで古い自分が死に、そこから上がってくることで新しい命に生きるものとされるのです。私たちの教会では、頭に水をかけるやり方で行われます。
・天から聞こえてきた声の「わたしの心に適う者」は、直訳すると「わたしはあなたを喜ぶ」となります。ずいぶん聞こえ方が違います。これは洗礼を受けたことを喜ぶという意味ではもちろんなく、この先どんなことがあっても「わたしはあなたを喜ぶ」というような宣言と言えるでしょう。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この言葉を、今日は皆さんに持って帰ってもらいたいと思います。
イエス様は聖書の中で色んなことをします。教えたり、病気を癒したり、悪霊を追い出したり・・・でも、その前にしたことがありました。それが、「洗礼を受けた」ということです。礼拝堂にも洗礼盤というものがあります。洗礼とは水を使って行いますが、それは罪を洗い流し、新しい命に生きるものとなるために行われます。
イエス様も洗礼を受けられました。イエス様も罪深かったのでしょうか。きっとそうではありませんね。洗礼者ヨハネも、イエス様が洗礼を受けようとやってこられたときにそれを止めようとしています。でもイエス様は、ご自分が洗礼を受けられることが「正しいこと」であるとして、止めさせなかったのです。そこには、何としても受けなければならないというイエス様の強い意志がありました。なぜそんなにも強く洗礼を受けようと思われたのかと言うと、それは、私たちと同じものとなられることを望まれたからです。そして、天が開いて、神様が語りかけられるのはこの箇所だけです。つまり、それだけ神様が直接語りたかった言葉ということです。
これからイエス様は色々な人のところに出かけていきます。その中で病気の人を癒したり、色んな人に教えを語ったりしますが、その歩みは十字架への歩みでもあります。十字架の上でイエス様は「神様、どうして私を見捨てたのですか」と叫びました。神様はイエス様を見捨てたから十字架につけたのでしょうか?そうではありませんね。たとえ十字架についていようとも、イエス様は神様の愛する子であり、神様の喜びなのです。
イエス様が私たちと同じものとなられるために洗礼を受けられたのは、この神様のメッセージを私たちに届けるためです。皆さんがどこに行こうとも、どんなことがあったとしても、皆さんは神様の子どもであり、神様の喜びであることを伝えてくれているのです。この大きな神様の愛の中を歩んでまいりましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
1「みんなでたたえましょう」
改訂8「みんなでたたえましょう」