神さまから、イエス様から与えられた使命に誠実に従う者として生きることがキリスト者の使命である。
王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった…この譬えはイエス様が十字架の道へと向かっていることを暗示している。
国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。…狭義には宗教的指導者たちであり、広義にはイスラエルの民全般。
似ている譬えであるマタイ25:14-30のタラントンの譬えは与えられた量が違ったが、ムナの譬えは全員が同じ量(1ムナ)である。命そのものとも言える。
1ムナは、労働者100日分の賃金である。
当時の金利は、年率4–12%と非常に高いものであったとも言われている。
ソップ寓話に「守銭奴」という物語があります。-金にうるさい男が、全財産を売り飛ばし、それを金塊に変えた。彼は、金塊を自宅脇の畑に埋めると、毎日ミニイッタ。しかし、彼がしょっちゅうそこへ行くのを使用人の一人が不審に思い、何をしているのか、探りを入れた。使用人は、すぐに、宝が隠してあるのを、嗅ぎ当てると、そこを掘り返し、金塊を盗んでしまった。守銭奴は、金塊が盗まれたことに気付くと、髪の毛を掻きむしり、大声で泣きわめいた。隣に住む人が、泣きわめく彼を見て、事の次第を見て取ると、こんなふうに言った。「お前さん、そんなに悲しむことはありませんよ。何処かで石でも拾ってらっしゃい。そして、それを金塊だと思って、お埋めなさい。どのみち、お前さんにとっては、オナジコトですからね」-この話が伝える教訓は「使わなければ、持ってないのも同じ」ということでしょう。与えられたものをどのように用いていくかでそのものの価値は決まるのです。使わねば金塊も石と同じ価値なのです。
今日のたとえ話は十人の人に十ムナ、つまり、一人一ムナずつ預けられて商売しなさいと言われたたとえ話です。ある人はそれで十ムナを、ある人は五ムナをもうけました。でもある人は主人が怖いと言い訳して、穴に埋めておきましたと言ったという譬えです。主人は失敗をしても怒らなかったと思います。でも、一ムナを差し出した人は主人の気持ちを理解せず、信頼もしていなかった、与えられた恵みに感謝などもなく、それを用いることをしようとはしませんでした。自分に与えられたものを失ってしまったのです。
イエス様は私たち一人一人にも一ムナ、大切な命をくださっています。この命に感謝して、神さまのために働くこと、生きることが大切です。小さなこと、この世のことに忠実な人を神さまは喜ばれ、神の国の恵み、働きを与えてくださいます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□3番 「きよいあさあけて」
□改訂97番 「美しい朝も」
・牧師先生にユダヤ教のファリサイ派やサドカイ派の人たちの「復活」についての考え方を聞いてみよう!
・死んだあとどうなる?死んだ人って今どうしてると思う?
・生き続ける上で必要なものってなんだろう?