・すべてのことが神様から与えられた賜物であることに気付き、たえず感謝することを忘れないようにしたい。
・癒し中心の物語ではない。神の憐みがそこにあることに気付き、それにどのように反応するか、という信仰についての箇所である。
・イエスの言う彼を救った信仰とは、「憐れんでください」と他の9人と共に叫んだ信仰ではない。神の憐みによって癒されたことに気付き、ひれ伏して感謝するという表現に表されている信仰のことである。彼はこれによって、確かな救いを宣言されるというより多くのものを得ることになった。
・15節の「知って」は、14節のイエスの「見て」と同じ言葉。彼が「見た」のは、「清くされた」という奇跡だけではなく、そのようないやしを起こされた神様ご自身であった。
・かつてイスラエル北王国がアッシリアによって征服されたとき(旧約聖書の時代)、アッシリアによる移住政策によってイスラエル北王国の民との間にできた雑婚民の子孫がサマリア人である。そのため、ユダヤ人たちから汚れた民とみなされていた。
・重い皮膚病(らい病)にかかっていた人は「宿営の外」で生活することを要求され(民5:2-3)、誰かが接近したときには「私は汚れた者です、汚れた者です」と叫ばなければならなかった(レビ13:45-46)。
・らい病を患っている人が回復しうる見込みがある場合には、まず祭司に清められたことを証明してもらい、その後はじめて共同体に戻ることを許された。(レビ14:23)
風邪をひかない人はいないよね。みんな病気になったら、どこに行くかな。病院に行くよね。お薬をもらって、ご飯をしっかり食べて、ぐっすり寝れば、だいたいの病気は治ると思う。
でも、どうして治るのかって言われたら、ちょっと説明するのは難しいんじゃないかな。
イエス様が生きていた時代は今よりももっと、どうして病気になるのか、そして病気がどうやったら治るのかわからない時代だった。
今日の聖書にも、重い皮膚病にかかった人が出てくる。誰も治すことが出来なかったし、いつのまにか治っていることを待っているしかなかった。
そんな人たちのところにイエス様が来てくれたから、みんなイエス様に治してくれるようにお願いをしたんだよね。
もちろん、聖書の中にはイエス様がすぐ病気を治してくれたってお話がたくさん入ってる。
でも、今日のイエス様はすぐに治してはくれなかったんだ。
イエス様のさよならしたあとに、いつの間にか治っていたんだ。
みんなは知ってると思う。病気ってかかるととってもつらいし、できなくなることもたくさんある。だから、美味しくご飯が食べれることも、みんなと一緒に元気に遊べることも、病気が治ることも、本当はみんな、当たり前じゃないってこと。
でもみんな忘れちゃうんだと思う。ご飯が食べれるのは当たり前も、病気がちゃんと治る当たり前も、みんなと元気に一緒に遊べる当たり前も、実は全部神様がくれたものなんだって。そのことを、今日の聖書は教えてくれている。
みんなが当たり前だと思っているものの中に、神様に「ありがとう」って言えるものが実は隠れているんだ。
だから、みんなの毎日の中に、「神様、ありがとう」をたくさん見つけてみてほしい。見つけるたびに、神様に、ありがとうってお祈りしてみてほしい。
そうすれば、きっと神様も「見つけてくれてありがとう」って一緒に喜んでくれるよ。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□51番 「わたしはしゅのこどもです」
□改訂123番 「わたしは主のこどもです」
<準備>
こどもさんびか2の85番を歌う。
<活動>
赦された時、どんな気持ちになるか一人ひとりに聞く。
嬉しい、ニコニコしちゃう、幸せ、気分が明るくなる・・など皆で分かち合う。
その気持ちを体でどう表せるか、考えます。
バンザーイ!思い切りジャンプ!スキップしてランラン♪ギャロップなどが出たら、嬉しい気持ちを表して、歌いながら体を動かそう!
♪かみさまに かんしゃしましょう(ジャンプジャンプ)
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ(ギャロップギャロップ)
かみさまは よいものを くださった(バンザイバンザイ)
ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ(スキップスキップ)
・他人に対して、神様に対してどのようなとき感謝していますか?
・信仰と感謝にどんな関係があるのでしょうか?
・今までに、人から感謝されたことはありますか?その時、どう感じましたか?