神に生かされ、養われていることを、悔い改めることを通して受け取っていきましょう。
ラザロと金持ちは死んだ後、対照的な待遇を受けます。その両者の溝は悔い改めたかによって生まれています。「悔い改め」とは、全てを神に委ね、神に生かされ、神に養われていることを受け取ることです。地上において弱くされていたラザロはそのことを知っていたけれども、金持ちの男は地上で何もかも持っていたからこそ、悔い改めることが出来なかったのです
ラザロは金持ちの門前に「横たわり」とありますが、直訳すると「置かれていた」とも読むことが出来ます。金持ちはラザロにひどい扱いをしていた可能性もありますが、「置かれていた」と読む場合、金持ちは門前ではあるけれども、ラザロに施しを行っていたとも考えられます。単純に金持ちがラザロに酷い扱いを下から死んだ後に罰を受けた、と結び付けてはなりません
昔から「罰が当たる」という言葉があります。教会では滅多に使われることのない言葉ですけれども、皆さんは今までどこかしらで耳にしたことのある言葉ではないでしょうか。悪いことをすると、悪いことが自分の身に返ってくる。だから、悪いことをせず、人に優しくしていきましょう。そのような考え方が、昔から存在していましたし、今でもたまに聞く言葉じゃないかと思います。
けれども、今日の箇所は、良いことをしたラザロという人が天国では良い場所に呼ばれて、悪いことをした金持ちが、天国ではとても苦しむという単純なお話ではありません。良いことをしたか悪いことをしたかではなく、悔い改めたかどうかが今日の箇所では大事なんです。
「悔い改め」って何でしょうか。よく「反省すること」なんて言われることもありますが、ちょっと違います。神さまを第一にして、全てを神さまにお任せしていくことです。その悔い改めによって、今日のラザロと金持ちの待遇の違いが起こっていたんです。
ラザロは、自分では生活が出来ないほどの病を持っている人でした。そのため、毎日を生きるのも大変です。でも、だからこそ、全部を神さまに委ねていけば良いんだということを、素直に受け取っていけたんです。対して、金持ちはお金をもっていましたから、日々の生活に困ることはなかったでしょう。神さまに頼る必要性など感じることもなかったんです。だから、悔い改めることをしませんでした。しかし、悔い改めることをやめていくとき、私たちは自分で生きられると勘違いして、果てには自分で何でも手に入れられたいと思い、何に対しても欲張りになってしまいます。そうなると、かえって辛い思いをしてしまうのです。ラザロのように、全てを神さまに委ねてしまえばよい、純粋にそう思えた時、私たちの心は軽くなっていきます。なぜなら、あの神さまが守ってくれるのだから、必要なものは全て与えられているんだと思えるようになるからです。それこそが、悔い改めの恵みなのです。
全部神さまがきっと守ってくださる。そうやって安心して、日々の生活を過ごしていきましょう
*□49番 「しゅイエスのひつじ」
*□47番(改訂版) 「小さい子どもの」
讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
イエス様は私たちを天国に招いてくださっていますが、このお金持ちと私たちの違いはなんでしょうか。