神さまの御心は計り知れず、神の国に入ろうとしても入れない人がいるという言葉に戸惑いを覚える。しかし、それでもなお、私たちは十字架における神の救いの約束を聴き取っていくものである。その約束を私たちの前にある狭い戸口とし、その約束にのみ信頼したい。イエス・キリストの十字架の死に私たちの救いと希望がある。
狭い戸口の前に立つとき私たちは何を感じるだろうか。入りにくいと感じたり、あきらめたりするかもしれない。つまり、自分にそこを通る可能性があるかどうか考えさせられる。イエスさまは、30節で驚くような逆転があることを語っている。逆転のメッセージを受け取っていくことは、大事なことであろう。
ルカは、福音書の半分以上をイエスさまのエルサレムへの旅として描いている。エルサレムは、イエスさまが十字架で死なれるところである。今回の箇所は、そのエルサレムへの旅との関わりの中で語られている。
私たちは、旅行に行くことがあります。そして、だいたいその旅の目的地ははっきりしています。おじいちゃん、おばあちゃんの家であったり、遊園地や水族館であったり、海や山だったりします。私たちは、色々なところに出かけて行きます。
さて、聖書は、神さまも旅に出かけたことを記しています。そして、その目的地もはっきりしています。しかし、神さまの旅は、たったひとつのところを目指した旅でした。その目的地は、エルサレムというところで、イエスさまが十字架によって死なれるところです。イエスさまは、死んでしまいます。しかし、そのことによって、神さまの心のドアは開かれたのです。
イエスさまは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。このイエスさまの言葉は、「良い子になるようにがんばったら、神さま認めてもらえるようになるよ」というように聞こえてきます。
しかし、私たちは、良い子になれるでしょうか。我がままを言うこともあります。嫌いな食べ物だってあります。お友達に意地悪してしまうこともあります。お父さんやお母さんや先生の言いつけを守れないこともあります。そんな私たちは、神さまの子どもにふさわしい者となって、神さまに受け入れてもらえるのでしょうか。私たちには難しい、本当に狭いドアのように思えます。
しかし、神さまの国に入れないと思っている人こそ、神さまに受け入れてもらえます。なぜなら、その人は、自分の力に頼るのではなく、神さまによって入れてもらうしかないことを知っている人だからです。ですから、それは狭いドアなのです。私たちのたった一つの救いは、神さまがイエスさまの十字架の死によって、良い子になれない私たちをゆるし、神さまの子どもとして受け入れてくださることなのです。ですから、私たちは、イエスさまの十字架によってゆるされて、受け入れられていることに信頼しましょう。良い子になったら神さまに愛してもらえるのではなく、良い子になれなくても私たちは神さまに愛されているのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□36番 「しゅイエスのみちを」
□120番(改訂版) 「主イェスの道を」
・1つは、適当な大きさの段ボール(広げるとハイハイで1人が入れる位の大きさ)を広げて、ガムテープで固定する。→狭い戸口
・1つは、大きめの段ボールを広げ、ガムテープで数枚つなげ、子どもが立って通れる広い戸口を作ってみる
・できあがったら、広い戸口―狭い戸口の順にくぐってみる。広い戸口は2,3人で通ると良い。
その1
・広い戸口は、簡単に入ることができましたか。どんな感じでしたか?(みんなで入ることができる、姿勢を変えずに入ることができる、楽に入れるetc)
・反対に狭い戸口はどうでしょう?どうやったら、入ることができたかな
・(姿勢を低くする、1人で入る、何も持たないで入るetc)
・イエス様は、「狭い戸口から入るよう努めなさい。」と言われます。どんな意味があるかみんなで話してみよう。(そのままでは入れない、自分を変える→悔いあらため)
その2
・順番抜かしされたことある(したことある)?それはどんな時?そしてどう思った?
・天国に入る順番があるとしたら、それはどうやって決まるんだろう?
・狭い戸口から入る生き方ってどんな生き方だと思う?