イエスさまを心に迎え、私たちの「命の土台」であることを子どもたちに伝える。
・登場人物を確認してみよう。ぶどう園の主人=神さま、農夫=イスラエルの民(私たち)、僕=預言者、わたしの愛する息子=イエスさま。
・捨てられたイエスさまが「隅の親石」になったよ。家を建てる者=祭司長や律法学者。家はユダヤ教の神殿という意味と、隅の親石が基となる新しい家=教会という意味の二つがあるね。
・隅の親石は「揺るがぬ土台」を表すが、18節の「その石」は「躓きの石」や「妨げの岩」(イザヤ8:14)という意味。老シメオンが「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ2:24)と言っているように、祭司長たちにとって隅の親石は、躓きの石であった。
・ ぶどう園はイスラエルの民を表す。イザヤ書5章「ぶどう畑の歌」を読んでみよう。
・神殿は石造りだけど、普通の家は日干しレンガで造られていたよ。
ぶどう園の主人に収穫を納める時が来ました。しかし、欲張りな農夫たちは、それを惜しんで、僕を袋叩きにし、次々と追い返してしまいす。主人は考えました。わたしの愛する息子なら敬ってくれるだろう。しかし、農夫たちは跡取りの息子を殺してしまったのです。このぶどう園の主人は神さまです。では、わたしの愛する息子は誰でしょう。そう、イエスさまですね。イエスさまも捨てられて、十字架の上で死んでしまいました。捨てられた「隅の親石」とはイエスさまのことなのです。
石は固くて頑丈です。昔の家は日干しレンガでできていました。泥をこね、レンガの形を作り、それを天日で干しました。そして、土台の石の上にレンガを乗せて家を建てました。土台がしっかりしていると、家は頑丈ですね。けれども、砂の上に家を建てたとしたら、どうでしょう。大雨が降れば、たちどころに流されて、家は倒れてしまいます。家は頑丈な場所に建てなければなりません。隅の親石は揺るがぬ土台でした。
また、固い石はいろいろな道具にもなります。昔は石で矢じりや斧が作られました。石矢を放てば、動物や鳥を仕留めることができます。石斧で樹木を伐採したり、獲物の肉を切り裂きました。このように石は打ち砕く、破壊する力を持っています。神さまのみ心に背く悪に対しては、み言葉は、矢じりや石斧のように、その悪の根を打ち砕きます。
隅の親石は、家の基礎となる土台の石です。祭司長や律法学者たちに捨てられたイエスさまが、神さまのみ力によってよみがえり、私の命の土台なってくれました。イエスさまは揺るがぬ岩です。これを拠り所とする時、私たちの心も強くなります。心に揺るがぬ岩を据えましょう。イエスさまを心の土台とする時に、私たちは、復活、絶えずよみがえりの命の力をいただき、元気に過ごすことができます。落ち込んでいる人に、隅の親石であるイエスさまを教えてあげたいですね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□63番 「あさひうけて」
□改訂版127番 「朝日うけて」
イースターうさぎを描き、切り抜きイースターにみんなで飾る。
□「ブドウ園の主人の息子」とは誰のことをたとえているでしょうか。
□律法学者や祭司長たちが「手を下そう」としたのはなぜでしょうか。