イエスさまは癒し主であり、メシア・救い主です。
人々は癒しを求めますがイエスさまは救いをお与えになりました。目が見えるようになった癒しの業は驚くべきことですが、それ以上にイエスさまをメシアと呼び、わたしの救い主と信じる信仰こそが、心の目を開く救いの出来事です。イエスさまを呼び求め「ダビデの子よ」と叫ぶ人に、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と、救いの業が今実現したことを宣言しました。
ダビデの子の称号はメシアの意味です。
「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞えない人の耳が開く」(イザヤ35:4-5)。
イエスさまの噂はエリコの町にも届いていました。イエスさまという名前の神さまのお力を持った人がいるぞ。この方は病人を癒したり、悪霊を追い出したり、奇跡を行うんだ。もし、そのような方がいるなら、救い主・メシアがいるなら、私の目も癒してもらえるかもしれない。もし、ダビデの子がいるなら…。
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」、彼の声はイエスさまのもとにすぐに届いたわけではありません。彼はあきらめずに何度も叫びましたね。目を閉じてこの物語を想像してみましょう。音だけだったら、イエスさまだと分かるかしら。彼は近くの人に尋ねましたね。その人は「ナザレのイエスのお通りだ」と言いました。「ナザレのイエス」と呼んでいます。でも彼は「ナザレのイエス」とは言わないで、「ダビデの子よ」とイエスさまに向かって呼びかけました。ダビデの子はメシア・救い主の意味です。「救い主よ、わたしを憐れんでください」と言っています。一生懸命に声を上げています。
彼は目が見えません。見えていたら、人々をかき分けてイエスさまの近くに行くこともできるのですが、見えませんからそれはできない、難しい。でも、そこに目の前に、見えないけれど、ここにイエスさまがおられます。彼は必死にイエスさまに向かって叫びました。
私たちの目にもイエスさまが見えるというわけではありません。けれども、ここにイエスさまは共におられます。いつも私たちと一緒、近くに、そばに、共にいるのです。
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」、その声はイエスさまの耳に届きました。誰か、わたしの名を呼んでいるぞ。イエスさまはお尋ねになります。何をしてほしいのか。彼は答えます。目が見えるようになりたいのです。「見えるようになれ」とは、目だけのことを言っているのでしょうか。心の目というものもあります。私たちの心の目も「見えるようになれ」、心が開かれるとイエスさまがメシア・救い主だと分かります。それが救いだと、聖書は言います。イエスさまはわたしの救い主、そのように私たちも信仰を告白いたしましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□61番 「いつくしみふかき」
□改訂版27番 「キリエ・エレイソン」
*広い場所や外でやるプログラムです*
目が見えなくても、仲間を信じて行動することを体験してみましょう。
(本来のネイチャーゲームの目的とははずれます)
①まず、輪を作りましょう。(10人程度)
②その中で、コウモリ1名とガ2~4名決めます。
③コウモリとガは、輪の中に入ります。この時、コウモリは目隠しをします。
④周りの輪の人は手をつないで壁を作ります。
⑤コウモリは「バット」と叫び、ガはそれにこたえて「モス」と叫びます。コウモリは「モス」の声をたよりにガを捕まえます。タッチされたガは、壁になり、何回か交替します。
①5人くらいのグループを作ります
②1人以外は、目隠しをします。
③1列にならび、前の人の肩に手をあて“いもむし”になります。
④先頭に目隠しをしていない人が立ち、手をとり探検にでかけましょう。*列が乱れないように前や後ろの人とペースを合わせて歩きましょう。