2019年1月20日 顕現節第3主日
ルカ4:16-32 エレミヤ1:4-8 Ⅰコリント12:1-11

今週の聖句

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
ルカによる福音書4章21節

ねらい

 日課の箇所の「はっきり行っておく.預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」のとおり、イエスと群衆の対峙.人の価値観の拘りと飛躍。

説教作成のヒント

一人の人間の評価は、それぞれの立場、拘わりにおいて大きく異なります。イエスもまたナザレのイエスとしての側面と神の子、救い主としての側面を有しています。つまり、神の側からの評価と人間世界での評価は、どちらが優先するものなのでしょうか。

豆知識

ルカがナザレにおけるこの出来事を最初に記したのは、イエスがご自身を神の子として公けに表明された最初の事件であり、荒野の試誘の結果、イエスが獲得し給える神の子の意識の発表であったためと思われる。

説教

人の確かさは、自分の経験や実績という裏付けでなされるものです。それは、言うまでもなく、人の目と耳と口による評価と 価値観によって支えられています。ですから、評価はそれぞれ一人ひとり異なるのは当然です。そのことを聖書は、「この人はヨセフの子ではないか。」と記し、どこまで行っても、自分たちの側で生活していた馴染みのイエスであり、神の子と呼ばれるに不釣り合いの「ヨセフの子」でしかありません。

 元パリ大学教授で哲学者の森有正氏は、著書「土の器」の中で信仰と信頼についてこのように語っています。一般に信仰は信頼の一種ではないかとか、信仰と信頼とは一番近いものと考えがちであるが、本当は一番遠いもので、信仰は信頼の一部ではないと言います。たとえば、ある競技会に選手を送る場合、非常に早く走る人がいて、過去にもよい記録を出し、現在の健康状態も良いとすると、人は積極的な結果を期待して、その人を信頼して競技に送り込むことができる。つまり信頼とは、何かその人に対して頼る、その人を当てにする積極的な理由のある時に持つことができる。ところが信仰とは、信頼の念を起こさせるような積極的な要素を欠いていたり、好ましい要素がないにもかかわらず、ある一つのことを本当であると信じることである。キリストは信頼ではなく信仰を求めておられる。逆に、信頼の基準に立って判断し識別している生き方、これが実は聖書でいう罪という姿を示している、そして、人間と人間の関係、人格と人格の関係というものは、本当の意味では信仰によってでしか維持することのできないものと言われます。

 このように、ナザレの人々も、群衆も皆自分の確かさ、信頼の領域においてイエスを評価しています。しかし、神の子として今、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉は、まさに、信頼から信仰への飛躍でしょう。人の評価から神様の評価へとすべてを委ねたとき、新たな広い世界が広がってきます。

分級への展開

さんびしよう

* 讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□120番 「どんなときでも」

□改訂版31番 「主よ、おいでください」

やってみよう

☆伝言ゲーム

チームに分かれてやってもよい。

聖書のみことばをいくつか選んで紙に書き、折りたたんでおく。

(※よく耳にするみことばではない箇所や覚えにくい箇所などみことば選びも工夫してください)

最初の人はみことばの紙を1枚選びとり、それを覚える。紙はリーダーに返す。

覚えたら次の人の耳元へ小さな声で伝える。

順にひとりづつ聞いたことばを覚えて次の人へ伝えていく。

最後の人はみんなに伝わったみことばをそのまま発表する。

まちがいなく伝わったかな?

☆みことばを贈ろう

先週作ったユールヤータの中に大好きなみことばを書いてお友だちやお家の人にプレゼントをしよう。

みことばカードを色画用紙に貼って裏にメッセージを書いてもいい。

はなしてみよう

・ (会堂があいていたら)みんなで聖書朗読台で聖書を読んでみよう!どんな気分だった?

・ みんなが救われるのと、自分だけが救われるのと、どっちが良い?

 お腹の減った10人の人が1枚のクッキーをどう分けたらみんなが救われるだろうか?

 お腹の減った人の気持ちになって、また、分ける人の気持ちになって考えてみよう。