私たちはキリストの言葉を学びます。それはすぐに生き方へと変えられるのです。キリストにあってどう生きるのか示されるのです。もっと言えば、キリストを生きるようにと導かれるのです。
すでにここにおられるキリストが、私たちを力づけてくださいます。そしてその御言葉によって共に歩いてくださいます。キリストが私たちを愛してくださっているのは、私たちもまたキリストの恵みによって隣人を愛するためです。
具体的に動くこと。それがキリストを生きることです。それはすでにキリストによって私に始められていることです。それにいつ気がつくか。先でしょうか、後でしょうか。
本日登場する男が「永遠の命」を真剣に求めていることは、彼の態度にすでにあらわれています。彼はイエス様に走り寄って、ひざまずいたのでした。その姿はイエス様に真剣に教えていただこうという態度でした。
ところが、この男に対するイエス様の答えは、聖書に書かれているそのままの通りのことでした。なにも珍しいことでもなく、神様がすでに十戒において教えておられることですよと言われたのです。しかし、ここに大変なことが隠されていたのです。イエス様が教えてくださったことは、あたりまえのことだけど、それを生きてみなさいということでした。聖書に書かれていることを忠実に守るだけではない。聖書にかいてあることを生きていればよいと言われたのでした。
十戒を守るということと、十戒を生きるということは違います。守るというのはあくまでも個人的ことです。ところが十戒を生きるということは、隣人と共に生きるということなのです。なぜなら十戒は、個人のためのものではなく、人間全体のものだからです。つまり、人に施しをするのは当然なことなのです。神様にあって人は平和に過ごすようにと十戒が定められたのです。
この男に欠けていたものは、「自分を愛するように隣人を愛する」という生き方でした。それは聖書を学んだものが、神様に生きて行く姿なのです。
ユダヤ人の『タルムード』の中に、「人は、黄金のナツメヤシや、針の穴を通り抜ける象を夢に見ることはない」という表現があります。あるいは聖書解釈集(ミドラシュ)の中に、「聖なる方は言う、私のために針の穴ほど戸を開けてくれるなら、私はあなたのために幕屋やラクダさえ通れるほど戸を開けよう」という表現もあります。当時のユダヤ人の言語習慣として、「小さな針の穴」と「大きな動物」との対比はよくある表現だったと思われます。まったくありえないことだという表現だと思われます。