弟子たちのしていた会話を通して、私たちの心の中にあるものを見つめていくことはまず大事。罪深い私たちに注がれる主の愛を感じ取りたい。
弟子たちは、誰が偉いか、と論じ合っていた。これを笑うことは、誰にもできない。私たちも、いつも誰かと誰か、そして、誰かと自分を比較して、優越感をおぼえたり、劣等感をおぼえたりしている。
タラントンのたとえも思い出してみよう。私たちは、力に応じて、それぞれ異なるものを神様からいただいているのである。見つめるべきは、その違いより、一人一人に与えられたそれぞれにふさわしいもの、そしてそれを与えてくださった神様の御心であろう。
ここでイエスが語られた受難予告はマルコ福音書において二回目のこと。しかし聖書に書かれていないだけで、本当はもっと何度も何度も弟子たちに語っておられたかもしれない。回数はどうあれ、受難予告は大事な弟子教育とイエス様は思っておられたのは間違いない。そこに主に従う者の道しるべがあり、主の御心があるから。
お弟子さんたちと過ごしておられた頃、イエス様は時々、おっしゃいました。わたしはね、死ぬために来たんだよ。それが天のお父様の御心だから。みんなのために十字架にかかってこの命を献げるために来たんだよ。
お弟子さんたちは、それを聴くと、「どうしてですか?」と尋ねることが出来ませんでした。「神の子だから、誰よりも強くて、誰よりもたくさん生きていけるんじゃないのかな」って、本当は思っていました。でも言えなかったのです。
お弟子さんたちはそんな話よりも、「あの人とこの人ではどっちが偉いか?」「おれとお前ではどっちが偉いか?」なんてことを話していました。すると、イエス様は、「何を話しているのか?」と尋ねられました。お弟子さんたちは、天のお父様のことではなく、自分たちのことばかり考えていて、話していたことがわかり、恥ずかしくなったのでしようか。何も言えませんでした。
その時イエス様は、偉くなりたいなら、自分のためばかりでなく、他の人のために生きなさい。いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。それが天のお父様の御心だから。とおっしゃいました。
わたしたちは、自分のことばかり考えてしまうことが多いですね。でも、イエスさまはどうでしょう。自分のことばっかりだったかな?むしろ、天のお父様のこと、周りの人々のことばかりをお考えだったようです。そして、イエスさまは、いつもあなたのことを大切に思っておられるのです。
そんなイエスさまのことを、わたしたちも忘れずにいたいものです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□48番 「こどもをまねく」
□改訂版5番 「こどもをまねく」
はじめはひとりずつスタートして歌いながら辺りを移動し、歌が終わったところで近くのひととじゃんけんをします。一般的には負けたら勝ったひとの後ろに付きますが、ここでは負けたひとが先頭になり、最後に一本の電車になるまでじゃんけんを繰り返します。
歌は「じゃんけん電車」、「貨物れっしゃ」などがあります。「線路はつづくよどこまでも」も良いでしょう。大人も入って、できるだけたくさんで遊ぶと楽しいと思います。一番先頭になるのは誰でしょう?
マルコ福音書を見ると、三度の「受難予告」が記されています。一度目は8章31節から、二度目は、今日のところ、そして、三度目は10章32節から。受難予告においては、いつも「弟子たちの無理解」がクローズアップされます。一度目は、「そんなことがあってはなりません」といさめたペトロがいさめられる話。二度目の今回も、それを聞きながら、「だれがいちばん偉いか」と語り合う姿。そして、三度目のところでは、ヤコブとヨハネが「わたしたち二人を一人は右に、ひとりは左に」座らせてと、イエスさまに自分たちの栄誉を願い出る姿です。
笑うことはできません。わたしたちも自分の心の中をのぞくと、やっぱりいい思いをしたい、自分だけは上手くいきたい、もっと認められたい、成功したい、・・・と願望を持っています。そういうお弟子たちをお見捨てになることなく、エルサレムへ歩まれたイエスさまのお姿、改めて振り返ってみましょう。