弟子たちとイエス様の姿勢、向いている方向性の違い。
それはすなわち私たちの姿。そこに問いかけてくるイエス様の御声、眼差しを受け止めて伝えたい。
メシア、救い主、神の子・・・さてそこに人は何をイメージするのか?
わたしは何を日々求めているのか。説教者は、その自問をしっかりしつつ、祈り、取り組んでいただきたい。
フィリポ・カイサリア地方は聖書の後ろの地図を見ていただければお分かりになると思うが、宣教活動を続けておられたガリラヤ湖周辺からだいぶ北に位置する場所である。この時は群衆から離れて弟子たちだけに語っておられる。いわば弟子教育の場と言えよう。
今、そのみ声を礼拝で聴く・・・主に従う者として選ばれた喜びを感じつつ、聞きたい。
本当のことを知らず、勝手に抱いているイメージというものがある。あちこちにある。私たち一人ひとりにもたくさんある。話の導入には良いと思う。
今回は、教会というところへのイメージで始めてみた。
フィリポ・カイサリアは豊かな水源の場所。水の音がする中で、イエス様はこの時叫ぶようにお語りになったかも。その、主の叫びは、今この時代にも響き渡っている。
教会に来たことがない人たちは、教会はクリスチャンだけが集まるところ、とか、恐い人たちが恐い顔しているところとか、みんなでずーっと祈ってばかりいるとか、テレビで見るようなヨーロッパの大きな建物があるとか、・・・色々なことを想像しています。来てみると本当の教会がどんなところかわかりますよね。イエス様はどんなお方だろう?これもやっぱり多くの人びとが、たぶんこんな感じかなぁと思っていたことです。
お弟子さんたちもイエス様はいつも輝いていて、カッコいいことばかりなさるお方だと思っていました。それで、ある時イエス様が、「わたしは十字架につけられて殺される」とおっしゃったとき、ペトロさんは、「そんなことはないです!」とイエス様の言われることに反対しました。
イエス様は間違ったことを言われたのではありませんでした。イエス様は神の子なのに、本当にいつも低い、低いお方で、ついに最後には十字架にかけられて殺されてしまいました。
ペトロさんや他のお弟子さんたちも後になってそのことが分かりました。そしてその時イエス様がおっしゃった、「私に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って来なさい」と言われた言葉をしっかり覚えました。私たちも、イエス様に従って生きるなら、自分のことばかり考えていてはいけない、わがままばかり言ってたらいけない、・・・十字架を背負って行かれたイエス様のお姿を思い起こしましょう。