イエス様の声を信仰を持って心から信じて聴く、耳を開いてくださいと共に祈りたい。
聴覚障がいを負った方とコミュニケーションを取ったこと、おありだろうか。なかなかないかもしれない。
昔の人たちとて同じだったことと思う。
イエス様は、彼にまっすぐ向き合い、関わられた。そのことはまずしっかり見ておきたい。それは私たち一人ひとりへの主のお姿なのだから。
「エッファタ」と、臨場感の伝わる表記である。「開け」と書かず、その時イエス様が言われた言葉をそのままここにマルコは記した。
例えば今私たちの日常では、アーメン、ハレルヤ、シャロームなどが馴染み深い。信仰の言葉として通じ合わせる力を持っていると言えよう。
「エッファタ」も、マルコさんの周りで当時親しまれていたのかもしれない。信仰の心が開かれよ、という願いを持ちつつだっただろうか。
お話をしつつ、子供たちにもエッファタの言葉が印象深く伝わると良いのではと思う。
ある時、イエスさまのもとに耳が聞こえず、言葉を話すことができない人が連れて来られました。一人でやって来たのではありません。周りのお友達が、この人を、イエスさまのもとに連れてきました。「イエスさま、この人に手を置いてください」と言って。素晴らしいことですね。この人たちは、自分のことよりも、耳が聞こえず、言葉が出ないこのお友達のことをいちばんに考えていました。イエスさまもお喜びになったことでしょう。
さて、イエスさまはその耳が聞こえず、言葉が出ない人と二人きりになって、耳や口に手を触れてくださいました。そして、この人に向かって、「エッファタ」と言われます。それは「開け」という意味でした。すると、この人の耳は開け、聞こえるようになります。口も話せるようになります。
すごいことが起こりました。みんなは驚きました。
エッファタ、開け。イエスさまの御声は今も聞こえます。わたしたちの歌う声が小さい時、エッファタと言われます。わたしたちが祈ることをやめてしまうとき、エッファタ、口を開いて祈りなさい、と言われます。わたしたちが聖書のお話をちゃんと聞かないとき、エッファタ、しっかり耳を開いて、聴きなさい、と言われます。もう神様なんて知らない、信じられない、なんて思うとき、あなたの心よ、信じる心よ、開け、開け、とイエスさまはいわれます。
これからも、しっかり祈りましょう。歌いましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□103番 「どんなにちいさい」
□改訂版58番 「どんなに小さい小鳥でも」
~高学年~
こどもは一人ひとり聖書を手にしてスタンバイ。
聖句とその聖書個所を書いたカードを数枚用意し、裏返しにして置いておく。
先生が「エッファタ(開け)!」と言いながらカードを開き、こどもたちは出た聖句の個所を探します。速く聖書を開けるかな?
~中学年~
動作にまどわされないように、よく言葉を聞くゲーム。
例)先生は「エッファタ、手!」と言いながら足を開く。先生の動作につられないで手を開きポーズしましょう。
初めの何回かは言葉と動作を合わせ、その後変えていった方が、どのこどもにもわかりやすいと思います。
~低学年~
体の一部(目、口、手など「開く」ことができる部分)を描いたカードを作り、やはり裏返して置いておく。先生はカードをめくりながらの「エッファタ」と言い、それに、合わせて絵と同じ体の一部(目、口、手など)をひらいてポーズ!
カードをめくるのをこどもたちが順番にするのも良いと思います。
・自分が一人ぼっちだと思うときってどんなとき?それはどうやって解消される?
・イエス様役の人を決めて、その人が二人の手を取って握手をさせる。二人はどんな気持ちになる?これがもし好きな人どうしだったら?嫌いな人どうしだったら?