① 舟は教会。
② 逆風の中、漕ぎ悩む時も、主が共に。主なる神様の支配がある。
4章の「突風を静める」記事と照らし合わせつつ。
アメリカのデンマーク移民の教会には、模型の舟がつりさげられていました。
教会はしばしば舟に譬えられます。礼拝堂の天井から模型の舟がつりさげられている、そんな教会、礼拝堂もあります。教会は舟で、そこに集まって礼拝する人たちは、その舟に乗って航海する人たちという考え方です。今日の福音は、イエス様の弟子たちが舟に乗ってガリラヤの湖を渡っていくことを語っています。この弟子たちの舟旅は、私たちの教会の歩み、信仰生活と重なり合うのです。
45節に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」とあります。イエス様は弟子たちを無理やり舟に乗せ、ガリラヤ湖へと漕ぎ出させたのです。私たちの教会生活にも、イエス様に強いられてという一面があるのです。そうでないと本当にイエス様の救いにあずかって生きることができないからです。信仰者は、キリストの体である教会の一員となって、頭であるキリストにつながり、同じキリスト体の部分である他の兄弟姉妹との交わりに生きるよう定められており、そうしてこそ、神様の恵みに養われ、成長するのです。私たちが教会につながり、礼拝する仲間たちと共に生きていくのは、自分の意志や考えだけによるのではなく、その根底には、神様のお心、ご計画があります。そういう意味でイエス様に強いられて、舟に乗っているのです。
さて弟子たちの舟と同じように、私たちの舟、教会も、時に沈みそうになり、そうでなくても、逆風に見舞われ、いくら漕いでも少しも前に進まず、むしろ後退してしまうことがあります。そんな中で疲れ、意気阻喪することも起ります。しかも、イエス様は舟に乗っておられないのです。どうしてイエス様はこの舟に乗っておられないのでしょうか。
もちろん、イエス様は本当はちゃんと乗っておられます。目には見えないけれども聖霊のお働きによって、イエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。ここで、イエス様が舟に乗り込んでおられないのは、弟子たちを突き放し、自分たちの力で湖を渡らせるためではありません。イエス様は湖を渡っていく彼らのために、父なる神様に執り成し、その歩みを支えておられます。それは目に見える仕方でその舟に乗り込んでいる以上の恵みなのです。その恵みは、今日の私たちの教会にも与えられています。今、主イエス・キリストは、父なる神の右の座に座しておられます。天で、私たちのために執り成し、守り支えてくださっています。
48節に、「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。イエス様は、彼らが漕ぎ悩んでいることをしっかりと見ておられます。同じように、イエス様は私たちの教会の歩みをいつも見ていてくださいます。そして、イエス様は、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれるのです。それは、必要があれば、どんな妨げや隔たりがあろうとも、それを乗り越えて、私たちのところに来てくださるということです。逆風に漕ぎ悩んでいる私たちのもとに、イエス様は聖霊の働きによって来てくださり、共にいてくださいます。
ところが、弟子たちは、イエス様が知らぬ顔で、そばを通り過ぎて行くように感じたのです。さらにはイエス様のことを幽霊だと思っておびえ、大声で叫んでしまうのでした。イエス様が来てくださり、助けてくださるというのに、その事態を正しく受け止めることができず、むしろ恐れて脅えて、慌てふためいているのです。それは私たちも同じかもしれません。
イエス様はそのように恐れ脅えている弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。この「わたしだ」という言葉は、ただ「幽霊ではない。私だ」と言っているだけではありません。「わたしはある」という言葉で、『出エジプト記』3章で、主なる神様がモーセにご自分のお名前をお示しになった、その時の言葉と同じです。「わたしはある」とは、主なる神様は、人間がどう言おうと、どう考えようと、神として確かに存在し、生きて働いておられるということです。イエス様はここで、そういう宣言をされたのです。
逆風の中で漕ぎ悩み、うろたえ、脅えている弟子たちですが、そこにまことの神様が、生きて働き、共にいてくださることを、イエス様は宣言されたのです。そして、舟に乗り込んできてくださいました。すると、「風は静まった」のです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□35番 「しゅわれをあいす」
□改訂版124番 「愛の主イエスは」
逆風のため、漕ぎ悩む体験を。
<用意するもの>
目隠し用のタオルなど2人に1枚(もしくは持ってきてもらう)
①2人ペアになって、1人が目隠しをする。
②もう1人が、声だけで誘導して教会の中や庭を歩く。
③次に、しっかり手をつないで同じように歩いてみる。
④今度は、目隠しする人を交代して同じように、声のみ、手をつないで歩いてみる。
⑤声だけの時と手をしっかりつないでいた時とどうだったか話してみる。
「イエス様は、みんなの手をしっかりとつないで歩いてくれます」
最後にみんなで輪になって隣の人としっかり手をつないでお祈りしましょう。