30節に、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。これは6章7節以下の、イエス様が十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたこととつながっています。
自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに、イエス様は、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言って、人里離れた所へ行かせようとしました。それは祈るためです。イエス様ご自身、人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持たれました。同じことを、今、弟子たちにもさせようとしたのです。イエス様は、弟子たちには今、そういう祈りの時が必要だと判断されたのです。人間は、自分の働きが順調な時ほど、自分の力を過信し、神様を忘れます。ですから、順調な時、うまくいっている時こそ、人々から離れて、働きも中断して、神様と向き合い、祈ることが大切です。
ところが、人里離れた所に行くはずが、そこはすでに、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆で大騒ぎでした。イエス様はその大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。彼らには、自分たちを養い、守り、導いてくれる飼い主、主人がいないのです。イエス様の深い憐れみ、それはただ「可哀想に思う」というのではなく、特別な思いです。イエス様は、集まっている群衆を深く憐れみ、いろいろと教え始められたのです。
イエス様の話が続く中、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは人里離れた場所です。そこに男だけでも五千人も集まっています。まもなく日が暮れます。夕食のことが気掛かりです。そろそろ「お開き」にしないと…。そこで弟子たちはイエス様に、「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と提案します。するとイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちは驚き、「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言ってしまいました。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。二百人分の賃金がなければ、食べ物を用意することはできないのです。そんなお金が自分たちにないことは、イエス様もよくご存じのはず。するとイエス様は、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と言われました。五つのパンと二匹の魚。それがすべてでした。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様は言われましたが、初めに話したことことを思い出してください。弟子たちは素晴しい働きをしてきました。「こんなことをしたよ。あんなこともできた」と達成感満々です。そんな弟子たちには、人里離れた所で休み、祈る時が必要でした。しかしそれは果たせず、今また多くの群衆に囲まれてしまいました。そんな弟子たちにイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。それは自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためでした。自信満々の弟子たちは群衆を前に、うろたえているのです。五つのパンと二匹の魚では、五千人以上の人々のお腹を満たすことは全くできません。
イエス様は、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取りました。そして、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせます。魚も同じように、です。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。
イエス様は弟子たちに、集まっている群衆を組に分けて座らせるようにお命じになり、そしてパンと魚を、弟子たちに配らせました。飼い主のいない羊のような人々に対するイエス様の憐れみ、神様の愛は、弟子たちの手を通して人々に分かち与えられたのでした。
こうして「すべての人が食べて満腹した」のでした。イエス・キリストという、まことの羊飼いのもとで養われる羊の群れは幸いです。
「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とありますが、それは、十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを十二人が集めたのです。弟子たち一人ひとりは無力です。しかし、イエス様は彼らを神様のご用のために用いてくださいます。