・敵対者との論争におけるイエス様の力に目を留める。
・神さまのまなざしが誰に向かっているのかを知る。
・片手の萎えた人がいた-実際は「萎えた(枯れた)手を持つ人がいた」
・イエス様が隠れてこの人を癒せば論争にならなかったが、イエス様はこの人を「真ん中に立たせて」癒しをされた。それはこの人が神さまの愛される一人であることを周りの人々に伝える行為でもある。良きわざは明らかにされたところで行われることもまた大事である。
・安息日の律法に関しては申命記5章に書かれている。またサムエル記上21章にはダビデが規則を破って祭壇に献げられたパンをもらって食べたことが記されている。
「まなざし」というのは人や物に視線を向けるときの目のようすのことです。「鋭いまなざしを向ける」や「優しいまなざし」や「疑いのまなざし」など色々あります。誰かから注目されるということはわたしたちにとってうれしさとそして恥ずかしさをもたらすことです。見られすぎるといやだなと思うこともあります。でも、誰からも見てもらえなかったとしたらどうでしょうか。
今日のイエス様の物語は誰からも目をむけてもらえなかったであろう人が、あるいはいつも目をそむけられたであろう人が注目されたという記事が記してあります。イエス様が礼拝堂に来られるとそこに手が上手に動かない人がいました。ハンディがあることが昔は神さまからの罰だと思われて、人々から避けられていました。今はそんなことを決して考えてはいけません。イエス様に反対する人たちは仕事をしてはいけない日にイエス様がこの人を癒されるか試そうとじっと見ていました。皆さんも急に病気になったら日曜日でも治して欲しいでしょ。この手が上手に動かない人も同じ思いだったに違いありません。イエス様はこの人を「真ん中に立ちなさい」と呼びかけます。ご自分がすごいことをするから見ていなさいと言うのではなく、この大切な人に神さまのみわざが注がれることを、この人を見なさいと言われるのです。人々はこの人を見たとき、自分たちの心の中も見たと思います。イエス様が律法に違反するかどうかだけに関心を持ち、片手の不自由な人が背負っている苦しみや悲しみには無関心でいようとしたことに気づいたでしょう。そのことに気づく時、神さまの愛のまなざしと同じまなざしを真ん中に立つ人に注げるのです。
この物語は安息日という規則よりも人を大切にされ、愛される神さまのみわざ、素晴らしい神さまのわざをまず教えられます。そして、神さまのまなざし、愛のまなざしが片手の不自由な人にあったこと、わたし自身に注がれていることを覚え、わたしたちも愛のまなざしを注ぐ生き方をしましょう。