安息日における礼拝の大切さを伝える。
安息日とはいったい何のためにあるのか、ということをまずは伝えたい。そのために「十戒」における安息日規定を紹介するのは有益だろう。安息日は私たちが日常から離れて、神に感謝をささげる日。イエスが言われたとおり、私たちの心身の癒しと信仰の回復のために備えられているのだ。
この日の第1の日課は『申命記』5:12~15。いわゆる「十戒」の安息日規定である。それによると、イスラエルの人々が安息日を守るのは神の救いのみ業(出エジプトの出来事)を想起するためとされている。一方、出エジプト記20章の「十戒」では、安息日規定の根拠が神の天地創造のみ業に置かれている。つまり、神の創造と救いのみ業に感謝するために、安息日には礼拝を守るのだ。
みなさん、今日は何曜日ですか?そう、○曜日です※。だから、こうやって今日も教会学校に来たんだよね。1週間に1度、教会では教会学校が開かれ、礼拝が行われます。じゃあ、礼拝って、何のためにするんだろう?お友達や先生と会うため?うん、それも楽しいことですね。でも、それだけではありません。教会に来ないと、会うことの出来ない人って誰でしょう?そう、イエスさまです。そして、イエスさまのお父さんである神さまです。礼拝は、私たちがイエスさまの言葉を聞くために、また私たちをいつも守り、導き、愛してくださる神さまに会うために、するのです。
礼拝が行われる日のことを聖書では「安息日」と呼んでいます。昔のユダヤの人の安息日は土曜日でした。その日は、お仕事はせずに、みんなで会堂に行って神さまを礼拝したのです。聖書のみ言葉を聞き、神さまにお祈りと感謝をささげるためです。こうして1週間に1度、お仕事から離れて、遊びも我慢して、礼拝に行くことはとても大切なことです。それによって、私たちの体や心も元気になり、神さまも喜んでくださるに違いないからです。でも、安息日は礼拝の日なので、あれもしちゃいけない、これもしちゃいけない、という決まりがどんどん増えてしまいました。たとえば誰かが死にそうな事故や病気にかかってしまったのに、その人を助けてはいけない。お医者さんもお仕事をしてはいけない…なんて滅茶苦茶な決まりまで出て来る始末でした。それで、イエスさまは言われたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。私たちが週に一度、教会に行って礼拝をするのは、私たちが元気になるためなのです。イエスさまのお話を聞き、神さまから恵みをいただいて、心も体も元気になるために−そうして他の人も元気づけ、優しくするために礼拝はあるのです。
みんながこうして今日も教会学校へ来てくれたこと、先生はすごいことだと思います。だって、せっかくのお休みの日なのだから、ゆっくり朝寝坊をしたいなとか、お家でゲームをして遊びたいなとか、どこかへお出かけしたいなという気持ちが、みんなにもきっとあると思うのです。それでも、みんなは教会学校へ来てくれた!そのことを先生も嬉しいけど、もっと嬉しく思っているのは、イエスさま。そしてイエスさまのお父さんである神さまだと思います。どうかこれからも続けて教会へ来てくださいね。
※教会によっては「日曜日」ではなく他の曜日に礼拝が行われている所もあるので、「○曜日」とした。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□103番 「どんなにちいさい」
□改訂版58番 「どんなに小さい小鳥でも」
<用意するもの>
麦。花屋さんで売っている青い麦2〜3(ない場合は麦を画用紙に描いて切り抜いてもいい)。
輪になって座り両手を後ろに廻して床の上を動かし麦を探す。
鬼は輪の外側を歌いながら麦を持って廻る。
歌っている間に誰かの後ろにこっそり麦を置く。
後ろに麦があることを見つけたこどもはすぐに麦を持って立ち上がり輪の外側に出て鬼を追いかける。
鬼は捕まる前に立った子どもの席に座る。麦を持った子は鬼になる。
座る前に捕まったらもう一度鬼になる。
♪ハンカチ落としの歌
おとした、おとした、麦の穂落とした、拾った方は追いかけておいで拾った方は追いかけておいで。
※安息日ビジュアル聖書百科p155安息日
・ 安息日の本来の意味を、旧約聖書の「十戒」や「律法」に遡って考えてみましょう。
・ 私たちにとって、安息日が本当の意味での安息となっているかどうか検証してみましょう。