なぜ、わたしたちは礼拝にあつまるのか?を考えてみる。わたしたちが、自分一人の力だけで、実りをもたらすことは不可能である。わたしたちは皆が、イエス様に結び合わされることで、一人ではなくなっている。礼拝は、わたしたちがイエス様によって呼び集められ、一人一人の中に、神さまからの生きる力を与えられる時である。
「木」のイメージを用いて、「神さまと繋がること、そしてわたしたちが互いに繋がることの大事さを考えてみる。切り離されて枯れた枝を持って来て、たやすく折れてしまうことを実演してみせても良いかもしれない。そして、繋がっている枝は、花を咲かせ、そして実りをもたらすことに思いを向け、その実りをもたらす力はどこからやってきたのかを考えてみる。
ヨハネ福音書には、いわゆる「譬え話」(例えば「善きサマリア人の譬え」のような物語)は収録されていない。そのかわり、主イエスが度々「わたしは・・・である」という言い方で、「たとえ」を語るという特徴がある。
今日の聖書の中では、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言っています。えっイエス様ってブドウだったの?ということではありません。それはもちろん「たとえ」というものです。イエス様がブドウの木みたいなものだっていうことです。それでは、それはどういう意味なんでしょうか?
木から切り離されてしまった枝はどうなるでしょうか。最初は生き生きとしているかもしれません。曲げても簡単には折れないでしょう。でも時間が経つと、だんだんと枯れてきてしまいます。そして、ポキッと簡単に折れるようになってしまいます。枝は、木につながっていないと、だんだん枯れてしまうのです。
木に繋がっている枝は、離れてしまった枝と、他に何が違うでしょうか。冬には葉っぱも落ちて枯れてしまったように見えていたとしても、木に繋がっている枝はまた春になると新しい命が始まります。葉っぱがでて、花が咲き、そして新しい実がみのります。
その新しい命はどこから来るのでしょう?それは繋がっている木からやってくるのです。今日の聖書でイエス様が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言っていることも、実は同じ事なのです。わたしたちは、イエス様から離れてしまうと、だんだんと枯れていってしまうだけのです。でも、イエス様とつながっているならば、たとえ冬の時があって、葉っぱも花も何もかも無くなってしまったとしても、イエス様からまた新しい命を受けて、新しい実りを頂くことが出来るのです。
それじゃあイエス様とつながるってどういうことでしょう?今日の聖書の最後でイエス様は「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」と教えられています。イエス様が、わたしたちみんなを愛されたように、わたしたちのことを大事にしてくださったように、わたしたちも互いに、愛し合うなら、つまり大事にするにならば、わたしたちはイエス様につながっているのです。
イエス様の愛につながっているわたしたちは、一人一人に新しい命を頂いて、お互いを大事にしあう力、守り合う力を頂いています。イエス様の愛の力が、今日もわたしたちに仲良くする力、お互いを大事にしあう力を与えてくださっていることを覚えましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□73番 「しゅイエスはまことのぶどうのき」
□改訂版60番 「主イェスはまことのぶどうの木」
(Lv.1)1節でイエス様は「私はまことの○○○の木」と言われました。○に入るのは何?(答え:「ぶどう」)
(Lv.2)「父がわたしを○されたように、わたしもあなたがたを○してきた。わたしの○にとどまりなさい。」○には同じ文字が入ります。それは何でしょう?(答え:「愛」)
(Lv.3)イエス様の言う「枝」は、誰のこと?(答え:「わたしたち」)
(Lv.4)イエス様の言う「掟」は、具体的には、「互いに愛し合いなさい」というものです。それが言われている箇所を探してみましょう。今日の箇所の少し後に2箇所、数ページ前の13章に1箇所あります。(答え: 15:12,15:17、13:34)
(Lv.99)今日は「復活後第四主日」です。でも、来年の四月の最後の日曜日の礼拝は「復活後第一主日」です。「第四」と「第一」、どうして違いが出るのでしょう?(答え:イースターの日付が毎年変わるから)
1.折り紙の茶色と紫を6等分に細く切ります。
2.最初に茶色を輪つなぎして、ぶどうの枝を作ります。
3.その後、枝の好きなところから紫色で輪つなぎの要領でぶどうの実を作っていきます。
みんな神様に繋がっているブドウの実が出来上がります。
イエス様につながること=イエス様の掟を守ること=イエス様の愛にとどまること、とはどういうことかを考えてみる。誰かを大事にする心と力は、どこからやってくるのか、を考えてみる。