この日は「受難主日」として十字架の出来事を記念する礼拝も行える。
イエス様が十字架にかかられるためにエルサレムの町に入ってこられる様子を伝える。
群衆が歓喜の叫びをもって迎えているイエス様は、やがて十字架にかけられる苦難の救い主であることを理解させる。
ろばに乗って来るイエス様の姿はゼカリヤ書9章9節によって描かれている「柔和な王」を示している。服を道に敷くのは、当時は王が即位する時の儀式で行われていた慣習にならったもので、葉のついた枝は王への服従のしるしとして表わされるもの。「ホサナ。主の名によって...」という群衆の叫び声は詩編118編から引用されている言葉。この言葉はもともとエルサレム神殿に巡礼のために訪れる人々を祭司が祝福するために用いられる慣例句だが、ここではメシアとして神から遣わされたイエスへの歓喜の言葉として使用されている。しかし、実際には王としての輝かしい姿ではなく、「十字架にかけられる苦難の僕」としての自覚をもってイエス様は入城し、やがて群衆の期待を裏切ることになる。
みなさんはろばさんを見たことありますか。お馬さんよりも、もっと小さいです。そして、ろばってとても優しい動物なんです。そのろばに乗って、イエス様が王様の姿で、エルサレムの町に入る場面が今日の聖書の個所です。小さなろばさんに乗っていたので、人々は「どうしてお馬さんじゃないんだろう?」って不思議に思いました。でも、もともと聖書に約束されていた王様の姿が、ろばに乗って来ると聞いていたので、イエス様のそのろばさんに乗っておいでになる様子をみて、本当の王様だと信じることができました。みなさんが知っている王様ってどんな人でしょう。王冠をかぶって、きらびやかで美しいお召し物を着て、かっこいいお姿...そういう人が王様の姿だと思います。でも、イエス様は豪華でお金持ちで、という人ではありませんでした。むしろ、貧しくて、きれいでもなくて、人からみたら王様には見えない...そういうお方でした。じつは、人々が期待していた王様の姿ではなく、人々の思いもよらない王様がイエス様というお方だったのです。人々が考える王様というのは、強くて、いばっていて、人に命令してみんなが言うことを聞くような、そういう王様でした。でもみなさんはそういういばっている人を好きですか。好きではないですよね。そういういばっている人ではなくて、優しくて、穏やかで、いつも人々の言うことを受け止めてくれる人、そういう人に王様になってもらいたいと思いませんか。じつは、イエス様が王様として今日、エルサレムの町に入って来られるのは、そういう優しくて穏やかな、そういうみんながいいなあと思う王様として、小さなろばに乗って来られたのです。へーっ、イエス様って、優しくて穏やかで、いばってなくて、みんなのことが好きなんだね。だから、エルサレムの町できっとイエス様は、みんなのために、やさしくていいことをしてくれるんだろうね。どんなことかな。この話はまた続きにね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□112番 「いばらのかんむり」
□改訂85番 「イエスの担った十字架は」
<用意するもの> 保冷剤2個(氷でも可)、タオル
①輪になり、まず一人が両手に1個ずつ保冷剤を持つ。
②冷たさを我慢できなくなったら、隣の人にパスする。
③順番にパスしていき、全員に回す。
④一人一人感じたことを話してみよう。
そして、十字架にかかられたイエス様の痛みを考えてみましょう。
イエス様は、私たちの罪の赦しのため、十字架にかかり命をすててくださったことを覚えて今週を過ごし、新しい命が与えられるイースターを待ちましょう。
・イエスさまはどんな思いをして、わたしたちのもとに来られたんだろう?
(先に天国に旅立ったわたしたちの愛する人たち(飼っていた犬や猫も含む)と再会できたときのわたしたちの喜んだ顔をイエスさまは見たいんじゃないかな?)
・イエスさまが十字架にかけられるってきいたけど、十字架にかかるってとても痛いことなんじゃないかな?みなさんが今まで一番痛かったのはどんなときだったかな?
(ヒザ小僧をけがしたとき?歯が痛いのもヤダよね?)