今日は全聖徒主日ですので、子どもたちにも天国への希望をもって頂けるようにしたいものです。ただし、一つ注意が必要です。聖書が語る「天国」は一般的なイメージ、うららかな青空のもとお花畑が広がっているような世界観とは必ずしもイコールではないからです。聖書が語る「天国」とは、神さまと共に過ごす(生きる)幸いなる場所(時間)だからです。つまり、神さま抜きの天国はありえないのです。しかし、大概「神さま抜き」の天国の話になってしまいやすいように思います。そこを注意しつつ、大まかで構わないので、神さまと共に生きる幸い(だからこそ、そこが素晴らしい世界になる)を子どもたちの心に残せればと思います。
今日の聖書箇所は非常に長いものです。こういった長い箇所はあれもこれもと思わず、大胆に一つのポイントに絞った方が良いように思います。前述のように、特に今日は全聖徒主日ですので、様々に考えられるポイントから「イエスさまとつながっている」ことの大切さを天国との関連から捉えてみたいと思います。
天国に関連する聖書箇所
イザヤ書11章6〜9節
ヨハネによる福音書14章1〜3節
コリントの信徒への手紙2 5章1〜2節
フィリピの信徒への手紙3章20節
ヨハネの黙示録21章1〜4節
みんなは迷子になったことある?(少し見回して、手を上げてもらっても良い)
そう…、怖かったね。
先生は自分の子供の頃のことは思えていないけれど、先生家の子どもなら迷子になったことがあるんだ。確か、まだ小学校1、2年生の頃だったかな。家族でニトリに買い物に行って(ニトリって知っている?)迷子になっちゃった。最初は迷子にならないように手を繋いでいたんだけれども、うちの子が嫌がるんだよね。で、手を離して、ちゃんと付いてくることを確認していたんだけれど、ちょっと奥さんと話していたらいなくなっちゃった。もうびっくりして探していたら、むこう(結構離れている様子を表現して)の方で泣いていた。先生は「勝手にどこかに行っちゃだめでしょ」とちょっと叱ってやろうと思ったんだけれど、あまりにわんわん泣いているので可哀想になって叱らなかった。きっと怖かったんだろうね。そして、お父さんである先生を見つけてホッとしたんだろうね。それからはちゃんと手をつなぐようになったんだ。
知らないところで一人ぼっちになるって、本当に怖いよね。心細いよね。でも、ちゃんとお父さんやお母さん(対象によって変えても良い)がそばにいてくれて、迷子にならないようにしっかり手を繋いでくれていたら、どれほど安心できるだろう。でもね、実は目に見えないけれども、みんなが迷子にならないようにイエスさまがしっかりと手を繋いでくれているんだ。
今日は大人の人たちは亡くなった(死んでしまった)方を記念する礼拝をするんだ。誰かとお別れするって本当に悲しいよね。それに、死んだらどうなるんだろう。心配にもなる。でもイエスさまは僕たち(私たち)が迷子にならないで、ちゃんと天国に行けるように、いつまでも、ずっと手を繋いでくれているんだ。そして、たとえ大好きな人と離れ離れになっても、その人と会えるように、手を繋いで連れて行ってくれるんだ。そのことをぜひ覚えてほしいと思います。
* 讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□60番 「かみよわたしの」
□改訂131番 「悲しいことがあっても」
(Lv.1)5節、「わたしは○、あなたがたはその○である」、さてイエス様は何と言われたでしょう?(答え:ぶどうの木、枝)
(Lv.2)イエス様が私達に命じる掟は何でしょう?2回出てきます(答え:「(わたしがあなたがたを愛したように)互いに愛し合いなさい。」)
(Lv.3)イエス様の掟は、マタイ22:39などでは同じことが少し違う言い方で言われています。さて、何と言われているでしょう?(答え:「隣人を自分のように愛しなさい」)
(Lv.4)今日の教会の暦は何でしょう?(教会の週報などに書いてあります)(答え:全聖徒主日)
(Lv.99)今日のお話のすぐ後、イエス様は実際に「友の為に命を捨てる」ことになります。一体何が起きるでしょう?(答え:十字架の出来事)
ひとりひとりの顔を描いてぶどうの木をつくりましょう。
大きなぶどうの木をつくります。ぶどうの実はひとりひとりの顔です。
CSスタッフ、保護者の方々、教会員など大人の人も一緒にみんなで描いてぶどうをたくさんつくりましょう。
教会につながっているたくさんの人たちのことを知り、感謝してお祈りをしましょう。
・死んだ人の事を思い出すときってどんな時?
・もし自分が死んだら思い出してほしい?そうならどうやって思い出してほしい?
・つながっているってどんな気持ち?手をつないでみよう!間にイエス様の人形置いてみたら?亡くなった人の写真を置いてみたら?どんな気持ち?