「戒める」「忠告する」ことは難しいことですが、決してあきらめず、良い道を一緒に歩くように祈りを持って誘いつづける。
友だちを本当に大切にするとはどういうことか考える。
18章全体を見ると、「天の国で一番偉いもの」「子どもを受入れること」「小さいものをつまづかせないこと」「迷い出た羊のたとえ」などが語られており、マタイ18章15節以下の「罪を犯した兄弟」もまた、小さい者、弱くされた者、弱くなった者を大切にするようにとイエス様が語られていることに気づく。
「キリストの名によって」受け入れるとは、キリストとのかかわり、関係性によって受け入れるのである。
今日の聖書に書いてあった「兄弟」とは、みんなのお兄ちゃんや妹だけのことではなく、お友だちや、教会に集まる一人一人のことです。そんな「兄弟」が罪を犯す、神さまの目から見て「悪いこと」をしてしまったのを見た時、みんなはどうする?
「だめじゃないか!」と大勢の人たちの前で注意する?それとも二人きりになって注意する?それともそれとも、だまっておく?
イエス様は「決してだまってはいけないよ」とおっしゃいます。そして大勢の前で注意したら、その人が恥ずかしくなったり、逆に怒ったり、開きなおったりするから、二人きりなって注意しないとおっしゃいます。そして、二人きりが怖いなら、三人でも四人でも、信頼できるお友だちを連れて来て一緒に注意しなさい。そしてそれでもだめなら、教会に連れてきなさい。とおっしゃいます。そしてそのお友だちが神さまに対して、人に対して、「悪かったなぁ」「ごめんなさい」と思うまで、ゆっくり、しっかり、注意しなさい。とおっしゃいます。
二人の間には私がいて、二人がしっかり向き合って話し合えるように応援しているよ。三人の間、つまり二人と二人の間にも私がいて、三人がしっかり無柿あって話し合えるように応援しているよ。教会に集まるみんなとみんなの間には私がいて、みんながしっかり向かって話し合えるように応援しているよ。私がみんなの手と手がつながるように、みんなの手と神さまの手がつながるように、間に立って、いつも応援しているよ。
イエス様はこのようにおっしゃってくださっているのです。
ね、悪いことをしてしまった人も、悪いことをしている人を見てしまった人も、だまっていると、心の中に何かもやもやしたものが残った経験があるんじゃない?イエス様はもやもやを残したまま、仲良くすることは難しいよ、神さまの前に一緒に立つことは難しいよ、私が応援しているから、ゆっくり、しっかり、向き合って「悪かったなぁ」「ごめんなさい」と思うまで、ゆっくり、しっかり、注意しなさい。みんなで仲良く、一緒に歩みなさい、互いが互いを大切にしなさい、と教えてくださっているのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□97番 「こころをあわせ」
□改訂18番 「こころをあわせ」
(lv.1)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、最初は何人で話し合う?(答え:2人)
(lv.2)2人で話し合ってダメな時、他の人もつれていくのは何故?(答え:証人になってもらう為)
(lv.3)17節の「異邦人」ってどんな人?(大人の)聖書の後ろの方に書いてあります。(答え:ユダヤ人以外の人)
(lv.4)17節の「徴税人」ですが、十二弟子の一人で徴税人出身なのは誰でしょう?マタイ9章に出てきます。(答え:マタイ。ルカ5章ではレビとも呼ばれています)
(lv.99)「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という言葉は、これより前にあるお弟子さんが言われたことです。さてそれを聞いたのは誰でしょう?マタイ16章にあります。(答え:シモン・ペトロ。そこではシモン・バルヨナとも呼ばれています)
イエスさまは、二人または3人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる、と言われました。
1、今から私がイエスさまになります、とイエスさまのお面をかぶる、または白い布を肩から斜めに掛けても良い。
2、いつも歌っているお祈りの歌(主の祈り=こどもさんびか21、小さいおててを組み合わせ、など)を歌いながら自由に歩く。
3、教師は歌の区切りがついたところで「二人」とか「三人」とか言う。
こどもは教師が言った人数で手をつないで座る。
一番速く座ったグループの真ん中にイエスさまが入る。
何度か人数を変えて繰り返して遊ぶ。
・実際に、2人または3人と、そして、多人数で集まってみよう。話し合うこともいいし、祈りをしてもいい。2人・3人と多人数は、違うことを体験するだろう。特に、祈りやたすけや支えが、一人では、できないものであることを確認しあったら、よい分級になることだろう。(教師一人一人が、子どもの様子をつかみ、組み合わせてみるのも工夫かも知れない)
・讃美歌を歌うことも、一つの取り組みも知れない。ハーモニーは、誰かがいないと、できないことで、独唱はあるが、共に歌うことは、相手があって初めてできることだから。歌う前には、この聖句を十分説明しておきたいし、この集まりの中にイエスさまがいることを伝えたい。