2017年6月4日 聖霊降臨祭
ヨハネ 7:37-39 ヨエル 3:1-5 使徒 2:1-21

今週の聖句

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
ヨハネによる福音書7章37節

ねらい

何に「渇いている」かを知り、「わたしのところに来て飲みなさい」とのイエスさまの招きに応える。

説教作成のヒント

今日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)という祝祭日であり、この日課もまたその流れの中で読むことが求められている。39節に「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである」と記されている。

豆知識

「ペンテコステ」:「第50」という意味。イエスさまが天に上げられる際、約束された聖霊(別の助け主)が、この日与えられた。(使徒言行録2章参照)

説教

今日は聖霊降臨祭、ペンテコステという日曜日です。「教会の誕生日」とも言われる日で、イースターやクリスマスと共に、教会の三大祝祭日と言われます。イースターやクリスマスになると、私たちは「おめでとう」とあいさつしますね。でも、ペンテコステには、そのようにあいさつしないのです。ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われますから、「おめでとう」とあいさつしてもいいのではないかと思います。

ペンテコステがどうして「教会の誕生日」と言われるのかというと、それはユダヤ人を恐れて隠れていたお弟子さんたちが、聖霊を受けるとたくさんの人々の前で、イエスさまについて話し始めたからです。お弟子さんたちが勇気を出して話し出したのではなく、聖霊が与えられたとき、お弟子さんたちの口はイエスさまのことを話さずにはいられなくなったのです。

旧約聖書の創世記に、神さまが人を造られた場面が次のように書かれています。「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(2章7節)」。ここにある「息」という言葉は、「風」とか「霊」とも訳されるのだそうです。神さまに命の息、霊を吹き入れられたとき、人は生きる者となったのです。

ユダヤ人を恐れて、イエスさまのことを口に出来なかったお弟子さんたちは、聖霊を受けたとき、イエスさまのことを伝えることができるようになりました。それは彼らが聖霊を受け、「生きる者となった」からなのです。ペンテコステは「教会の誕生日」と言われますが、教会はイエスさまのことを話して生きる人が、たくさんいるところということになりますね。

今日、イエスさまが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われています。それは私たちが聖霊という命の息を受けて、新しく生きるように望んでおられるのです。

風は見えません。でも風に木が揺れるのを見て、私たちは風が吹いているのを見ることが出来ます。同じように聖霊は見えません。命の息も見えません。でも私たちがイエスさまのことを話し始めるとき、周りの人に私たちに吹いている聖霊という風がわかるのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□36番 「しゅイエスのみちを」

□改訂版120番 「主イェスの道を」

やってみよう

☆イエス様から水をいただこう

水の入ったやかんかポットを用意する

それが隠れるくらいの紙にイエスさまの上半身(全身でも良い)を描く。

ちょうど胸のあたりからやかんの注ぎ口がでるように少し穴を開ける。

イエスさまは渇いているものは誰でも私のところにきて飲みなさい、と言われました。

今日は イエスさまから命の水を頂きましょう。

と言ってこどもたち一人一人にコップを持たせて水を入れてあげる。 ジュースもありかな?

イエスさまから頂いた水は美味しい? お弟子さんたちはどんな水を頂いたんだろうねえ。 と話し合う。

聖書振り返りクイズ

(Lv.1)イエス様を信じる人は、何を受けるでしょう?(答え:「霊」「聖霊」)

(Lv.2)今日は、何というお祝いの日でしょう?(答え:聖霊降臨日、ペンテコステ)

(Lv.3)使徒言行録2:1-11に、最初の聖霊降臨の出来事が記されています。その時弟子たちは、何が出来るようになったでしょうか?(答え:世界中の人々に言葉が通じるようになった)

(Lv.4)その時お弟子さんたちは、何を話していたでしょうか(答え:「神の偉大な業」=イエス様を通して与えられた神様の素晴らしい働きについて)

(Lv.99)なんで弟子たちに特別な力が与えられたのでしょう。来週の聖書の箇所(マタイ28:16-20)も読んで考えてみましょう。(答え:世界中の人々に神様の偉大な業を伝え、世界中の民をイエス様の弟子にするため)

はなしてみよう

イエスさまの言われる「渇いている」とは、どういうことだと思いますか? あなたが「渇いている」と感じたことについて、話してみよう。 あなたの周りの人で、「渇いている」と思う人のことを考えてみよう。 どうしたら「渇いている」人をイエスさまのところに連れて行くことができますか?