2017年4月2日 四旬節第5主日
ヨハネ11:17-53 ローマ5:1-5 エゼキエル33:10-16

今週の聖句

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」
ヨハネによる福音書11章40節

説教作成のヒント

イエスがラザロを生き返らせた、という有名なお話の一部です。葬儀などでしばしば朗読されるイエスの言葉もここに記されています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11・25)。大変長い箇所であり、物語全体をまとめるのにひと苦労あるかもしれませんが、そのままをまとめて物語としてお話するのもよいでしょう。

ここでは、特に「神の栄光」について考えてみたいと思います。物語のはじめは「病人がいた」(1節)。それはマルタとマリアの兄弟ラザロであり、イエスにとって、近しいものでした。姉妹はイエスに助けを求めましたが、イエスは間に合いませんでした。マルタはイエスに、「主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11・21)と落胆を述べているようです。悲しみというより、なじるような非難にも響きます。このような悲しみに触れ、イエスもまた「心に憤りを覚える」(33節)。そして「再び憤りを覚えて」、「墓に来られた」。そこでいわれたのが朗読箇所です。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。

神の栄光は「光の出来事」ですが、その陰影は深いものがあります。一般的に、栄光とはさん然とかがやく様を思い浮かべるものですが、ヨハネ福音書の栄光はどちらかという墨絵や切り絵、銅版画などによって表現されるにふさわしい「輝き」のイメージです。闇の中に輝く光がテーマとなります。

四旬節を迎えてのこの福音書朗読です。CSでも日課に沿うているところでは、すでにひと月以上、イエスのご受難と死をめぐる御言葉を聞いてきたはずです。ラザロの話も、イエスの十字架の話も、劇的なドラマとして話すにせよ、その陰影を子どもと一緒に味わう方法を探りたいと思います。日課の意図は、十字架と復活の位置関係に思いを向けさせることにあるのでしょう。復活は十字架にかけられたものの復活であり、光は闇の中でともされたのです。それは危機一髪、栄光に向かう物語ではなく、危機の中に灯された光の物語です。「信じる」というのは、その危機-闇―死に宿る神の救いの物語であるといえます。

説教

「あるところに重い病気をした人がいました」。この人のお名前はラザロさんです。三人兄弟の末っ子です。上にお姉さんが二人いて、マルタさんとマリアさんというお名前でした。ラザロさんはとても重いご病気になり、お姉さんのマルタさんとマリアさんもとても心配していました。そこで「イエスさまなら、何とかしてくださるに違いない」。そう思ってイエスさまに助けを求めました。でも、イエスさまは間に合いませんでした。どうして間に合わなかったのか分かりません。マルタさんはイエスさまに向かって、「イエスさま。もしここにいてくださったなら、ラザロは死ななかったでしょう」(11・21)と、悲しみというより、なじるような気持ちでいいました。イエスさまは、言い訳をされませんでした。そのかわり、こんなことをおっしゃいました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。とても不思議で難しい言葉だと思います。マルタさんもイエスさまも、そして周りにいた人たちも大切なラザロさんが亡くなったのでとても悲しいときだったからです。でも、マルタさんはイエスさまがそうおっしゃってすぐに、「あっ、私はイエスさまを信じているんだ。神さまはここで共にいてくださるに違いない」と思いました。

このときイエスさまがおっしゃったことをとてもよく分かると言った人がいます。その人は、山浦先生といって、東北の気仙沼というところでお医者さんをされている方です。大きな地震・津波のときに大きな被害にあわれました。とってもつらくて悲しい体験だったのですが、そんな中でイエスさまのお言葉を思い出します。今朝のマルタさんと似ていたのかもしれません。津波のあと、寒い日に悲しんで外に立ちつくしているとき、ふとイエスさまの声が聞こえたように思いました。こんなお声だったとおっしゃっています。「おい、元気をだせ、この生き死人め。この俺は死んでもまた立ち上がったのだぞ。その俺がついているんだ。さぁ、涙をふけ。勇気をだして、いっしょにまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう」。

イエスさまが「神様の栄光を見る」というのはこういうことなんじゃないかと思います。栄光というのは、こうしてとても悲しいことやとても大変な目にあったときに、イエスさまが「わたしを信じているか。神の栄光を見るといったではないか」とおっしゃるのは、そこにイエスさまが私たちと共にいてくださる。丁度ラザロさんが亡くなったとき、とてもつらくて悲しくて腹立たしい思いをするようなとき、イエスさまが近づいて、元気をだせ。神さまは、私があなたといるように、共にいてくださるのだ、そうおっしゃってくださるのではないかと思います。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□114番 「ちいさいいのちが」

□改訂119番 「主に従うことは」

やってみよう

☆聖書振り返りクイズ

聖書片手に、みんなでクイズに挑戦しましょう。難しい問題は、一緒になって探しても良いですね。ヒントは、わからないようならすぐに出してあげてください。

(Lv.1)死んでしまったラザロには、二人の姉妹がいました。その名前は? (答え:マルタとマリア)

(Lv.2)二人のうち、どっちがお姉さん? (答え:マルタ)

(Lv.3)二人の姉妹とラザロが住んでいた街の名前は?(答え:ベタニア)

(Lv.4)その街はエルサレムから15スタディオン離れていました。これってどれくらい?(新約聖書の最後の方、ヨハネの黙示録の次あたりにヒントが!)(答え:1スタディオンは185mなので、2775m)

(Lv.99)二人の姉妹は、他の福音書にも出てきます。さぁ、どこでしょう?(ヒント:ルカ福音書の真ん中よりちょっと前)(答え: ルカ10章)

☆みことばカードをつくりましょう

☆絵本の読み聞かせをする

『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイさく・え 小川仁央やく 評論社)

みんなに慕われていたアナグマが死んでみんなは悲しみでいっぱいでした。途方に暮れる中、アナグ

マとの思い出を語りだしました...友だちをつなぐ心や生きていく知恵や工夫を伝えあっていくこと

の大切さをおくりものとして残していました。アナグマが死んでもみんなの心の中に生きている...

心に深くしみる感動の絵本です。

はなしてみよう

身近な人の死、イエスさまのことば、死んでも生きること....など

年齢に応じて感じたこと、思っていることを話し合ってみましょう。