イエスさまは神さまの愛を人々に示す、まことの救い主であることを伝えたい。
この直前までの箇所で、イエスさまは、救い主の業として、生まれつき目の見えない人の目を開いたことが記されていた。イエスさまはこのことを通して、御自分が救い主であることを示した。一方、目の開かれた人はイエスさまを通して神さまの救いを受け止め、新しい命に生きる者となった。「今は見える」とのこの人の言葉は、目が開かれたことだけでなく、イエスさまがまことの救い主だと分かったという意味であろう。
・安息日は、モーセの十戒に基づくが、この一つの戒めを守るために39の禁止事項が作られ、さらにそれを守るために234の行為が禁止された。そうして様々な労働が制限されたのである。
・ファリサイ派は、これらを厳格に守る人々で、ユダヤの宗教的指導者でもあった。
ある安息日のこと。イエスさまは、生まれつき目の見えない人の目にこねた土を塗り、見えるようにされました。
けれども、安息日というのはユダヤの律法の決まりで、神さまに感謝するための日とされていたので、この日には働いたり、病気を癒したりすることは許されていませんでした。もし、そのようなことをしたら、その人は大切な決まりを守らない「罪人」と言われ、ユダヤ人の中から仲間外れにされたのです。
イエスさまが目を開かれたことを知って、決まりを大切に守る「ファリサイ派」と呼ばれる人々は言いました。「イエスさまは、神さまに感謝する安息日をちゃんと守らない罪人だから、神さまのもとから来た救い主ではない」。でも一方では、こんな風にいう人もいました。「もし、イエスさまが罪人なら、こんな奇跡を行うことができるはずがない」。みんなはどう思う?
イエスさまがわざわざ安息日にこの人の目を開かれたのは、この人が神さまの恵みを受けて、新しく力をいただいて歩み出すためだったのです。安息日に静かに神さまに感謝するのもいいでしょうが、イエスさまは安息日を人が神さまの恵みを受ける日とされたのです。
今日の最後のところで、目の開かれた人はこう言っています。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。
この人は、イエスさまが自分のためにしてくださった業を喜んで、そういっているのではないでしょうか。天の神さまがイエスさまを通して、自分にも心を留め、愛し、大きな業を為してくださることを知って、感謝をしているのです。そうして、この人は安息日に神さまから恵みをいただき、神さまとの深い交わりを持つことができたのです。目の開かれた人は、とても恵み深い安息日を過ごしましたね。
この人が言う「今は見える」というのは、目が見えるというだけではありません。イエスさまこそが神さまの愛を与えてくださる方であり、救い主だという事が、今、はっきりと分かったということでもあるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□86番 「あかるいひかりを」
□改訂34番 「キリストの平和」
<用意するもの> 画用紙(大きさは自由)、折り紙、のり
①画用紙いっぱいにハートの形を描く。
②好きな色の折り紙を小さくちぎる。(何色かづつ)
③画用紙のハートの中にちぎった折り紙をペタペタ貼る。
・みんなは外国に行ったことはあるかな?それはどこかな?
(世界中の人を愛している神様ってすごいね、と伝えたい)
・最近風邪を引いた人とか、ケガをした人とか心配している人はいますか?
(みんなのママもパパもみんなのこと心配しているよ、神様と同じくらいに...)