イエスさまは人間の罪を赦し、愛によって生かされるメシアであることを伝えたい。
イエスさまの言われる「水」と、サマリアの女性が考えている「水」は異なることに注目して伝えたい。前者は神の霊、後者は物質としての水である。水が人間の肉体を生かすように、イエスさまの与える霊的な水は人間を永遠の命に生かすものである。イエスさまは、この水である愛によって彼女を永遠の命に導き入れる。
・雨の少ないパレスチナでは、水はとても貴重なものだった。そのような背景において、イエスさまはご自分が「生きた水」を与えるという。
・当時の習慣では、水汲みは朝と夕方に行われたが、物語中のサマリアの女性は、正午ごろ水を汲みに来た。この女性は人目を避けていたということであろう。16節以下の問答でイエスさまはこの女性に「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」とあるので、これがその理由と考えられる。この女性に、イエスさまは自ら声をかけ、関わったのである。
イエスさまはガリラヤに向かっている途中、サマリアのシカルという町に来られました。その町の「ヤコブの井戸」のそばに座っていたイエスさまは、井戸に水を汲みに来た女の人に「水を飲ませてください」と頼みました。それは、他の人があまり水を汲みに来ないお昼頃のことでした。
さて、イエスさまは、この後の女の人と会話の中で、こんなことをおっしゃっています。「この井戸の水を飲む人は、また喉が渇くけれども、わたしが与える水を飲む人は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内に泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
どういうことでしょうか。
イエスさまは、この女の人の心が渇いていることをご存じでした。この人は、周りの人々が大事にしていた律法という決まりにそぐわない人生を歩んできた人でした。きっと、周りの人たちから「罪人」だと悪く言われたり、仲間外れにされて辛い思いをしていたのではないかと思います。だから、この女の人は、なるべく人に会わないようにお昼頃に水くみに来たのです。
そんな女の人の、自分を責める後ろめたい心や寂しい心をイエスさまはご存じでした。罪に苦しんでいた女の人を放ってはおかれませんでした。
イエスさまは女の人に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。イエスさまの与える水、とは、イエスさまから与えられる愛の事です。それは、神さまに罪を犯してしまった人を赦す、神さまの愛です。
イエスさまという方は一人一人を愛してくださる方です。もちろん、間違ったことをしてしまったり、良くないことをしてしまったら、ごめんなさいと謝らなくてはいけませんね。けれども、それでもイエスさまはみんなを見捨てるのではなくて、大切な一人として愛してくださる方です。
この愛は、井戸の水と違って、決して無くなることのないものです。そして、それをいただくならば、その人はいつまでも神さまの尽きない恵みに励まされて、生きることができるのです。
イエスさまは、わたしたちのことも愛し、励まし、生かしてくださいます。どんなときにも、この愛を信じていたいですね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□88番 「かみさまのあいは」
□改訂40番 「神様の愛は」
用意するもの:画用紙、白のクレヨン、小皿(なければ何かふたでもよい)
やり方:
①画用紙に白いクレヨンで自分の顔を描く。
②トレイに水色の絵の具の液を多めに作っておく。
③1人ずつふでと小皿をもち、水色の絵の具液が入っているトレイを「泉」に見立てて、液を分けてもらってくる。
④自分の絵を描いた画用紙に水色の液で全体を塗るとはじかれて自画像がうかび見えてくる。
・水が無いとどんな大変な事があるだろう。
・イエスさまの言われた「わたしが与える水」渇くことのない「水」は何の事について言っているのかな?