皆の僕となるということは、他人に仕える者となることであり、そこには他人に対する愛がある。イエスさまが十字架でそれを示したように、人を愛する生き方に導かれたい。
イエスさまがご自身の十字架と復活を弟子たちに予告するのはこれで3度目である。それにもかかわらず、弟子たちはなかなかその意味を理解できず、ここでも世俗の地位を求める。
そのような中でイエスさまは「皆の僕になりなさい」と語られた。イエスさまご自身は救い主として、十字架で命を捧げることで「皆の僕」となった。これは、愛によって世の人々を祝福に生かす救い主としての生き方である。聖句の「いちばん上」とは、世俗の地位ではなく、イエスさまの生き方に適うという意味で取ると理解できる。
・杯とは、死に至るほどの苦難を意味する。ここではイエスさまが遭う十字架の苦難のことである。
イエスさまは今、エルサレムの町へ向かって、弟子たちと旅をしています。このエルサレムで、イエスさまは人々の罪を赦すために十字架にかかるのです。
その途中で、イエスさまの弟子のヤコブとヨハネの母親が、イエスさまの所へ来て「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れる」と約束してください、と願ったのです。母親は、自分の子供たちのヤコブとヨハネを他の弟子たちよりも偉くしてください、と言っているのです。
偉くなることを求めていたのは、この母親だけではありませんでした。この様子を見ていた他の10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネだけイエスさまにお願いして偉くなろうとするなんてずるい、と腹を立てたのですから、この弟子たちも心の中では、自分も他の弟子よりも偉くなりたいと思っていたのです。
イエスさまはこの母親に「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。」と言われ、弟子たちにはこういわれるのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。
他の人よりも偉くなりたい、という思いの裏側には、偉くない人を見下す思いがあります。知らず知らずのうちに、他の人を見下してしまうことで、他の人を愛し、助け合って共に生きることが難しくなってしまうものです。
でも、イエスさまはそういう方ではありませんでした。十字架に掛かって、誰よりも低くなって、人に仕える僕となられた方でした。そうして人々の罪や痛み、苦しみを引き受けられました。そうすることで、イエスさまは人々を愛されたのです。
イエスさまは、弟子たちが順位争いをするのでなく、人に仕えて神さまの愛を分け合う人として生きてほしいと望んだのです。それで、すべての人に仕える「皆の僕」となる人こそ、いちばん偉いのだと言われたのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□123番 「かなしいときにも」
□改訂122番 「さあ、共に生きよう」
用意するもの:目かくし用の布。折り返し地点に目印になる物
やり方:①5、6人が1つの列になる
②1列に並んで、先頭の人がいばって歩き、2番目以降の人は頭を下げて小さくなってついて行く。
③折り返し地点になったら、2番目の人に目かくしをして、先頭の人は優しく手を引いてゴールまで連れて行く。3番目の人は先頭の人の肩につかまり、それ以降の人も同様に前の人の肩につかまってゆっくり歩く。
④ゴールしたら先頭だった人は終わり。一番後ろにつき、次の人が先頭になり、同様にして歩く。列が一巡したら終わり。
・えらくなるとか一番になるというのは、どんなことを思い浮かべるかな?
・皆の僕(しもべ)になるってどんなことだろう?
・イエスさまが僕のように接してくださったことがあったお話を覚えているかな?