誰もが世の光、神様の子として生かされ、神様の目に尊い存在であり善しとされているということを伝える。
罪人である私たち人間が、神様によって光の子とされ、善い行いができる者へと造り変えられている喜び、恵みに思いを向けてみるとよいかもしれません。
また、誰でも神様の前では等しく罪人であって、神様の恵みに与る祝福された存在とされているということについて考えてみるのもいいと思います。
「立派な行い」は、ギリシャ語聖書から直訳すると「善い働き」となる。
「善い」という言葉は、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳された旧約聖書の創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」の「良かった」という言葉と同じ言葉が使われている。つまり、良いということは、神様の業であって、人間の業ではないということ。
誰でも心のどこかで誰かの役に立ちたい、立派なことをして人から褒められたいという思いがあります。そして、一方で人の役に立たない人や、立派でない人を馬鹿にしたりしてしまいます。人間は、そうやって人の価値を比べて、あの人はいい人だとか、悪い人だと言いたがります。
けれども、今日のイエス様が話されたお言葉の中に「あなたがたは世の光である」と仰っています。イエス様は、目の前にいるたくさんの人たちに「あなたがたは世の光である」と言ったのです。これはとてもビックリすることです。
なぜならば、イエス様が生きていらっしゃった時代は、正しくて、神様の恵みに与れる人は、律法学者やファリサイ派、祭司という人たちであって、普通の人は決して正しくないし、神様の恵みを受けるような存在じゃないと思われていたからです。
そして、このイエス様の目の前に居たのは、そういう普通の人たちばかりでした。
でもよくよく考えてみると、私たちも実はこのイエス様の前に居る人たちの中の一人だと思うのです。だって私も考えてみると、さっき言ったみたいに、あの人は立派じゃないとか、私はあの人よりもできる人だと比べてしまうことがあるからです。
ということは「あれ?私も神様の御心から離れてしまっている」「神様の救いに与ることができない一人じゃないか」って気が付かされます。
でも、イエス様は、そんな私に「あなたがたは世の光である」と仰ってくださっています。なぜでしょう。それは、たとえあなたが悪い人、神様の御心から離れていても、私の光をあなたにプレゼントしているから、あなたは世の光なのだよと言ってくださっているのです。
つまり私たちが正しいから、相応しいからじゃなくて、神様の正しさが私たちに与えられて、私たちは善いことができるのだということです。だからイエス様は、その光を人々の前に輝かしなさいとおススメしてくださっています。私たちが善いから立派なのではありません。神様が善いものを私たちにプレゼントしてくださっているから、私たちは善い行いができるし、人にやさしくできるし、人と比べることなんてしなくていいんだと思うことができるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□129番 「どんどこどんどこ」
□改訂106番 「どんどこどんどこ」
① ロウソクを入れるビンに模様をつけよう ・ジャムなどの広口のビンにマジックで絵を描いたり、 ビニールテープを四角や三角などに切り貼って仕上げる。 ビンの中には 100 円ショップなどに売っている安定感のあるロウソクがちょうどよい。長いロウソクを入れる場合は倒れないようにビンの底に 粘土で土台を作るとよい。
② 絵本を読もう 「フレデリック」(作:レオ・レオニ) ねずみのフレデリックの話。他のねずみたちが一生懸命仕事をしている間 一緒にやろうとせず、別のことをしていた。やがて冬がきて、蓄えていた 食べ物がなくなってしまって・・・・
『 私たちひとりひとりが神さまから大切にされ、わたしたちを地の塩、世の光としてくださってありがとうございます。世界の人たちが、神さまを信じ礼拝するようになるために、私たちの存在が役 に立ちますように。 』 お祈りをする。
・塩入のパンと塩の入っていないパンを作って味を比べてみよう! 無理なら、スパゲッティのゆで汁に塩を入れたものと入れてないものを作って味を比べてみよう! ・真っ暗闇の部屋の床に 10 円玉を落として探してみよう!今度はロウソクに火を灯して探してみよ う! ・塩や光の働きについて考えてみよう。塩が助演男/女優、光が主演男/女優だとしたら、自分はどっ ちタイプ? ・将来、自分はどんな仕事がしたい?それは塩タイプ?光タイプ?その理由は?