・終わりの時に語られる言葉であるが、希望がどんな時にもあることを覚える。
・「髪の毛一本」はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえ。それさえも守られるということが大事。
・「命」とは永遠の命であり、今を生きる命。
・紀元70年、ユダヤ戦争において、ローマ帝国軍は3日間に渡って聖所に火を放ち、立て篭もったユダヤ人を虐殺して、その後に神殿を破壊した。そのような現実の困難の中で書かれたものでもあると思われる。
マルティン・ルターの言ったと言われている言葉に「明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という言葉があります。同じようにカトリックの修道士アッシジのフランシスコが兄弟の修道士といっしょに庭で働いている時に「もし、今晩、世界の終わりが来ると知ったら、あなたは何をしますか」と聞かれて、フランシスコは「庭での仕事を続けます」と言ったそうです。わたしたちならどうするでしょうか。あと、何時間しかないから今やること、いつもやることを放っておいて、あれを、これをとやり残したことがないように生活するのでしょうか。
今日の聖書の言葉は世の終わりが来るようなことが書かれています。、「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」と書かれてもいます。こういうことを聞かされると不安に思ったりします。でも、イエス様の言葉はどんな時もわたしたちを怖がらせる言葉ではなく、「よろこびの知らせ」であることを忘れてはいけません。どんな時でも希望を持つようにとイエス様は言われています。戦々恐々と生きて行くことが求められているのではないのです。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という言葉でどんな小さな害もないようにしてくださるとイエス様は約束してくださっています。守ってくださる。それ以上に心強いことはありません。忍耐とは一人で耐えることではなくて、イエス様に委ねてイエス様と一緒に歩むことです。
そして、わたしたちにとって大事なことは与えられた一日一日を忠実に生きて行くことです。今日も落ち着いて、なすべきことをする。それが命を得ることなのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□120番 「どんなときでも」
□改訂129番 「どんな時でも」
・この世の終わりって考えたことある?もし来るならどうやって終わると思う?
・2011年3月11日以前の教科書と以降の教科書を見比べてみて、どこが一緒でどこが違うが調べてみよう。
・生きることが大変と思ったことってある?