2016年10月23日 聖霊降臨後第23主日
ルカ18:9-14 申命記10:12-22 Ⅱテモテ4:6-18

今週の聖句

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
ルカによる福音書18:14

ねらい

・「正しさ」についてイエスに学ぶ(祈りとはありのままの自分を、ありのままに差し出すことであり、誰かや何かと比較するようなものではない)。

説教作成のヒント

・「義とする」とは人間的な正しさ、という以前に「人が神によって正しい者とされる」」という意味を持つ。

・ファリサイ派は悪い者ではなく「高ぶる者」「うぬぼれている人」「他人を見下している人」として描かれる。

・「正しさ」は他者と比べて得られるものでも、自らの努力によって勝ち取るものではなく、ただ神に与えられるものである。

豆知識

・12節は申命記14章22節の律法がもとになっている。

・「胸を打つ」とは、痛恨の悲しみや悔俊のしるし。

説教

みなさんは「正しい人」ですか?(手をあげてもらう)

では「正しい人」に聞きます、みなさんは何故、自分を「正しい」と思ったのですか?

では「正しい」と思わなかった人に聞きます、みなさんは何故、自分を「正しい」とは思わなかったのですか?

「正しさ」とは、何でしょうか?正しさとは良いこと?間違ってないということ?

二人の正しい人がいました。一人はファリサイ派の人でした。ファリサイ派というのはユダヤ教のグループの一つで、旧約聖書に書かれた掟を守ることを第一に考え、何があっても掟である律法に従っていました。律法を守ることはとても大変で、町の人はみんなファリサイ派の人々を尊敬していました。そしてファリサイハの人々は自分たちも、律法を守っているから、他の人たちにはできないことをやっているから、自分のことを正しい者だと思っていました。

もう一人は徴税人でした。徴税人とはローマにかわってユダヤの人々から税金を集めることを仕事としていて、外国人のために働いたり、外国人と会ったり話をしたりするため、律法に違反している判断され、ユダヤ教の人たち、特に祭司やファリサイ派の人たちから嫌われていました。徴税人は自分でも人から嫌われていることを知っていましたし、自分のやっていることが正しいことがどうか悩んでいました。

二人の正しい人はお祈りをしに神殿にやってきました。ファリサイ派の人は「お祈りが大切である」という律法を守るためにお祈りをします。そして自分は正しいと思っているので自信満々で立ってお祈りをします。心の中でも自分が如何に正しいかを神さまに伝え、そして視界に入ったであろう徴税人と自分を比べ、自分があんな人にならなかったことを神さまに感謝しました。一方の徴税人は、自分が正しいかどうかもわからず、むしろ悩んで、隅の方でお祈りをします。そして自己主張も感謝もせず、ただ憐れみを求めるお祈りをしました。

これはイエス様が話したたとえ話です。そしてイエス様は神さまによって「正しい」とされたのは、ファリサイ派の人ではなく徴税人であると言いました。ファリサイ派の人も、徴税人もどちらも正しい人として、イエス様はたとえ話をされたのです。

しかしもちろん、この「正しさ」は同じ「正しさ」ではありません。ファリサイ派の人は自分は正しいと思っていましたが、神さまは正しい人とはしませんでした。逆に徴税人は自分は正しくない人だと思っていましたが、神さまは正しい人としました。

神さまが正しいとするのは、自分は正しいと自分で思っている人よりも自分には正しくないところがあると自分を低くする人です。神さまが正しいとするのは、他人を見下す人ではなく、自分の弱さをよく知っているひとです。神さまが正しいとするのは神さまの前で自分を誇る人ではなく、憐れみを求める人です。100%正しい人がいるでしょうか?間違いを一度も犯したことのない人がいるでしょうか?良いことづくめの人がいるでしょうか?イエスさまは私たちに弱くてもいいと言ってくださいます。自分は正しい人ですと言わなくてもいいと言ってくださいます。ただ、正しくない自分を神さまの前で正直に告白し、ごめんなさいと言うことを、正しくない私を正しい私に代えてくださいと祈ることの大切さを教えてくださっているのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□4番 「けさもわたしの」

□改訂115番 「この花のように」

話してみよう

・ファリサイ人は、どこ(なに)を見ていますか?

・徴税人は、どこ(なに)を見ていますか?

・高ぶる心は、あなたにもありますか?

・へりくだる心は、あなたにとってどのような心(こと)と思いますか?

・思い上がるってどんなことでしょう?

・自分は正しいと思っている人と、悪いと思っている人と、どちらが罪深いと思いますか?

やってみよう

☆「罪ってなあに?」

今日の箇所を子どもたちと分かち合いましょう。

「罪」とはどんなものでしょうか。

子どもたちがどんな風に受け止めているのか、聞いてみたら色々挙がると思います。盗む、裏切る、傷つける・・などが出てくるでしょうか。

聖書にある「罪」とは、盗んだ、傷つけた、などの行動そのものの事だけでなく、むしろ神さまに知らん顔をする、また周りの人たちに対して優しさやいたわりのない自分勝手な思い等わたし達みんなの心の中にあるものだ、と語られています。

そのことを伝え、いっしょに祈りましょう。

罪をおかさないように、ではなく「神さまと私の心がいつも近くにあるように」また意地悪をしない、だけではなく「まわりの人たちと助け合って仲良く暮らしていけるように」。子どもたちには、愛なる神さまに向かってのびのびとした信仰をもつ人になって欲しいと願いますし、また、わたし達大人も同じ気持ちで祈りたいと思います。