この世の貧富の差(構造的な経済格差)が神の御心に背くものであり、神様は常に貧しい者、困窮した者を心にかけておられることを示す。貧困状態にある人々への共感を育む。
イエスの譬え話が、現代にも起こっている事柄と重なることを、児童のわかる範囲で伝えるよう努めた。その上で、譬え話の物語性を大切に、少しでもラザロの境遇に想いを寄せられるように心がけた。神の罰としての地獄について、幼い聞き手に恐怖感を与えすぎないよう配慮が必要である。「モーセと預言者」の教えについては、省略している。現代の子どもの貧困、ホームレス問題、世界の飢餓の問題とも関連して展開できるかもしれない。
ホームレスであるラザロには名前が与えられており、一方の金持ちは匿名のままであることに注目すべきである。ホームレス状態にある人々の、人としての尊厳、人権が、まず神様によって尊重されていることを表しているといえる。
わたしたちの住む世界には、お城のような家に住んでいて、自分の専用飛行機を持っているような、びっくりするほどのお金持ちがいます。その一方で、一日たった一回のごはんも食べられないような、まずしい人たちがたくさんいます。どうしてでしょう?お金持ちはたくさん働いたから?まずしい人は、なまけて仕事をしなかったから?それとも神様が、誰がお金持ちになって、誰が貧乏になるかを決められたから?いいえ、どれも違います。まずしい人たちは、働きたくても仕事がなかったり、一生懸命仕事をしても、ほんの少しのお金しかもらえなったりするのです。お金持ちの人たちは、自分の持っているたくさんのお金を使って、まずしい人たちを助けてあげれば、世界中のみんなが幸せになれるのに、それをしようとしません。そのことを、神様はとても悲しんでおられます。
日本にも、ホームレスと呼ばれる人たちがいます。まずしくて、働きたくても仕事がなくて、とうとう住む家もなくなって、道端や公園で寝ている人たちです。ホームレスの人の多くは、家族もなくひとりぼっちです。ごはんをまったく食べられない日もあります。長い間お風呂にも入っていないので、汗と埃の臭いがします。病気になっても病院に行くお金もありません。それで身体を悪くしていることが多いのです。
今日のイエス様のお話の中にも、ホームレスの人が登場します。名前をラザロさんと言います。ホームレスの人たちにも、ちゃんと一人一人名前があります。ラザロさんは、いつも町一番のお金持ちの家の門の前に寝ていました。長い間何も食べていないので、起き上がる元気もないのです。一方そのお金持ちの家の主人は、王様のような豪華な着物を着て、毎日ごちそうを食べて贅沢に暮らしていました。ラザロさんはいつも、そのごちそうの食べ残しを食べさせてもらいたいなあ、と願っていましたが、お金持ちの家の主人は何ひとつくれず、ただラザロさんの前を、汚いものを見るようにイヤな顔をして、無視して通りすぎるだけでした。ラザロさんは身体を悪くしていて、身体中におできができていました。友達はのら犬だけ。ラザロさんのおできを舐めて、慰めてくれるのでした。
ある朝とうとうラザロさんは、死んでしまいました。その時、天使たちが迎えに来て、ラザロさんを天国へと連れて行ったのです。この世でつらいことをたくさん我慢して生きた人は、死んだら、誰よりも真っ先に天国に行くことができるのです。そこにはラザロさんたちのご先祖であるアブラハムがいて、ラザロさんをやさしく懐に抱いてくれました。
さて、しばらくしてお金持ちの家の主人も死んでしまいました。このお金持ちが死んでから行ったところは、天国ではなく、恐ろしい炎の燃える地獄でした。お金持ちが、地獄の炎の中で苦しみながら上を見上げると、そこには天国でアブラハムと共にいる、幸せそうなラザロさんが見えました。お金持ちは、アブラハムに向かって「助けてください。せめてラザロを私のところに来させて、ほんの少しの水をください」と頼みました。けれども、アブラハムは悲しそうに、こう言いました。「おまえは、生きている間によいものをひとりじめして、苦しんでいるラザロに何もわけてやらなかった。だから今、おまえは苦しみ、ラザロは天国にいる。おまえを助けることはどうにもできないのだ」。
神様は、わたしたちみんなを天国に招きたいと願っておられます。そのためには生きている間に、神様から預かったお金や食べ物なんかを貧しい人とわけあって、助け合って生きていくことが求められているのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□49番 「しゅイエスのひつじ」
□47番(改訂版) 「小さい子どもの」
イエス様は私たちを天国に招いてくださっていますが、このお金持ちと私たちの違いはなんでしょうか。