社会・共同体から迷い出た(疎外された)者の痛みに共感し、「どの人も、かけがえのない存在、かけがえのない一人であること」が伝わることを考えた。
例え話の物語性を大切に、平易に話すようにした。聞き手が迷子になる体験を導入にして、迷い出た羊(存在)に、より共感できるよう試みた。さらに「良い羊飼い」であるイエス様の愛、神様の愛についての理解へと繋げる。聞き手である「あなた」が大切な存在であることを、いっそう強調してもよい。
本来、私たち一人一人の尊厳や価値というものは比較できるものではないはずである。「九十九匹の羊と一匹の羊」という数字上の比較は神様の前には意味をなさない。それはあくまで暫定的なもの、一時的な量りにすぎず、本質を量るものではない。
迷子になったことのあるお友達はいますか? お家の人と一緒に、お買い物や遊園地やお祭りのような、人がいっぱいいるところに出かけて、いつのまにかお家の人とはぐれてしまって、「おかあさ~ん、おとうさ~ん、おばあちゃ~ん、どこにいるの?」と、泣きべそかきながらひっしに探したことはないかな? あるいは、いつも遊んでいる場所よりも遠くまで遊びに行って、帰る道がわからなくなってしまい、歩いても歩いても家にたどりつけなくて、「どうしよう」って、不安な気持ちでいっぱいになったことはないかな?
ある時、イエス様はこんなお話しをされました。迷子になった一匹の羊と、その羊を探しに出かけ、見つけ出して家に連れ帰る羊飼いのお話しです。羊も迷子になるのでしょうか?羊は、おとなしくて臆病な動物です。どんなときも、仲間の羊たちと一緒に行動します。一匹の羊がある方向に動きだすと、他の羊たちも皆それについていく。羊飼いは、そんな羊たちを上手に導いて、おいしい草のたっぷりある場所に連れて行って食べさせ、安全に眠れるところに連れて帰ります。羊たちは、夜も身体を寄せ合って眠ります。羊は他の羊たちと一緒にいることで、安心するのです。ところが、そんな羊も仲間からはぐれて迷子になってしまうことがあります。おいしい草を食べることに夢中になるうちに、他の羊たちが羊飼いに導かれて帰るのに気づかなかったり、背の高い草の繁みの中に入り込んで、そこから出て来られなくなってしまったり。まだ小さい子羊は、好奇心がいっぱいで、お母さん羊から離れて遊びにいき、自分がどこにいるのか分からなってしまうことがよくあるそうです。ひとりぼっちなってしまった羊は、自分だけでは仲間のところに帰れません。いつもは羊飼いや他の羊にくっついて歩いているので、道を覚えていないのです。その場でうろうろしたり、まったく違った方に向かって歩いていってしまったり。そんな迷子の羊を危険がおそいます。羊は目があまりよく見えないので、地面のくぼみや大きな石につまずいて怪我をしたり、あやまって崖から落ちてしまったり。さらに一匹だけになってしまった羊を、お腹をすかせた恐ろしい狼がねらいます。
イエス様は言われます。「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。羊飼いは、百匹も羊を飼っているのだから、そのうちの一匹がいなくなったって、まあしょうがないかとは思いません。どんな一匹であっても、羊飼いにとっては大切な、かけがえのない一匹なのです。よい羊飼いは、羊の気持ちをよく知っています。迷子になった羊が今、どれほど不安で、おびえているのか、痛いほどよくわかります。だから他の九十九匹を置いてでも、その一匹を助けにいくのです。ちょうど、こどもが迷子になったとき、お家の人が心配でたまらない気持ちで、その子を探し回るように。そうして、迷子の羊が無事に見つかったら、大喜びで、その羊を肩に担いで、残してきた九十九匹のところへ帰ります。
イエス様は、ご自分のことを「わたしはよい羊飼い」だと言われます。イエス様にとっての羊とは、わたしたち人間みんなのことです。もしも誰かがひとりぼっちで、不安でさびしく、恐ろしく感じているのなら、イエス様は必ず探し出し、助けてくださいます。そして見つかったことをとても喜んで、大きな愛でしっかりと抱きしめてくださいます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□108番 「くじゅうくひきを」
□55番(改訂版) 「小さい羊が」
1)羊のぬいぐるみを用意し、部屋のどこかに隠す。みんなで探す。
2)机の上で。模造紙など、机の大きさに合う紙に山や森の絵を描き、(アドベントカレンダーのような)閉じてある窓を作る。その中の一つに紙に描いた羊を隠し、皆で探す。
イエス様のおっしゃる「まいごのひつじ」とはだれのことでしょうか。