イエスさまは、火を投じるために来たという。それは、神の裁きを通して私たちが救いに至るためである。神のことばは、厳しさ抜きには語れないが、また厳しいだけでもないことを分かち合いたい。★説教作成のヒント
裁きと救いは表裏一体である。裁きとは、私たちの罪が暴かれていくことであり、私たちが自分を救い得ないことを知らしめることである。しかし、だからこそ、イエス・キリストの福音が響く。
「火」とは、おそらく神の裁きのイメージとして用いられている。しかし、それを聖霊の火とみなす人もいる。
イエスさまが受けねばならない洗礼とは、イエスさまの死を表している。
たまに気付かれなければ悪いことをしてもいいんだよと言う人がいます。たとえば、人の物を盗むことです。泥棒はいけないことです。しかし、夜中にこっそりお家に忍び込んで、お金や宝石を盗んでいく人がいます。夜は暗いですし、眠っている人が多いので、人に気付かれにくくなります。そして、気付かれなければ、盗んだお金や宝石は自分のものになるから、それでいいと言う人がいるのです。本当にそうでしょうか。
イエスさまは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われました。イエスさまの火は、夜の闇にこっそり悪いことをしていても、それを照らして明るみに出します。そんなとき、イエスさまの火は、悪い人を懲らしめるとても熱い火にもなります。私たちは、どうでしょうか。もしかしたら、こっそり悪いことをしているかもしれません。気付かれなければ大丈夫と思っているかもしれません。しかし、イエスさまの火が私たちの悪さを明らかにします。私たちは、イエスさまに対して、悪いことを隠すことはできないのです。
そんな私たちは、熱い火に焼かれてしまうのでしょうか。そうではありません。イエスさまは、私たちが自分の悪さに気付けるようにしてくださっているからです。そして、それだけでなく、どんなに悪い人でも赦し、受け入れてくださるイエスさまの愛の火にも気付くように語っておられるからです。私たちは、イエスさまの教えによって、教えが守れない自分の悪さが見えてきます。そして、こんな悪い自分は、赦してもらえるんだろうか、神さまの子どもとしてふさわしいんだろうかと考え込んでしまうかもしれません。しかし、自分はダメかもしれないと思ったときにこそ、イエスさまの優しくて温かい火が私たちの心に灯ります。
悪いことをするのは良くないことです。しかし、悪い自分でも、神さまは厳しくも優しく受け入れてくださいます。そんなイエスさまの愛の火を私たちの心の中にいただきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□46番 「やまにはけわしい」
□120番(改訂版) 「主イエスの道を」
今日は2つのゲームをやりましょう。人数によりますが、きっと室内でできるのではないでしょうか。
それぞれのゲームで、指示をするリーダーが必要です。また、リーダー以外は目隠しをしてやると難易度があります。
特にゲーム2は動きがあるので、教師の方々は見守りをお願いします。
~ゲーム1~
リーダーは前に、子どもたちは散らばって立ちます。
1.リーダーが「イエス様が言いました。座りなさい。」全員座ります。
2.「ジャンプしなさい。」これは、“イエス様が言いました”とは言っていないので、その場から動きません。
3.“イエス様が言いました”と言っていないのに動いたり、リーダーが指示した動きと違うことをやったら抜けましょう。
4.最後の1人になるまで続けます。
~ゲーム2~
1.おしくらまんじゅうのように、隣の子どもと腕を組み、背中を合わせて円陣を組みます。
2.リーダーが「左」と言ったらみんなで左に、「右」と言ったら右にドドドッと移動します。
3.リーダーは前後左右、左回り、右回り、しゃがむ、ジャンプとみんなを操縦します。
~ゲーム1~では、リーダーの指示をきちんと聞き分け、その言葉を信じて行動する力が必要です。
~ゲーム2~では、リーダーと仲間たちを信じて動かないとできません。
仲良しで周りに合わせることだけではなく、神さまの言葉に耳を傾け、自信を持ってすすむように伝えたいです。
・分裂した方がいいことってある?具体的に挙げてみよう。
・「形だけの平和」ってあるだろうか?それって良いこと?
・イエス様の言う「火」って何だろう?