神さまの愛とは何か。そして、その愛と平和とがどのようにつながるのか。そのことをみことばから聴いていきたい。
「愛」という抽象的概念をより具体的に表現すると子どもたちに伝わりやすいかもしれない。たとえば、愛はどんな人でも受け入れることなど。その際、それが「私たちの」愛となるということも大事なことだが、まず「神さまの」愛として聴いていく。
今回の日課の直前に、イエスさまは、私たちの愛の基礎はどこにあるのかをぶどうの木とその枝のイメージを用いて話している。枝がぶどうの木につながっていることで実を結べるように、私たちはイエスさまの愛にとどまっていることで、愛する者とされるのである。
悲しいことに、私たちの世界では、自分と違うからという理由で暴力を振るわれたり、とても酷いことを言われたりして傷付いている方々がいます。生まれた国が違うからあなたは人間じゃないと言われたり、性別が違うから仲間外れにされたりする人々がいるのです。もし、みんながそんな風に違いがあるからという理由で嫌なことをされたらどう思うでしょうか。もし、野菜が苦手で少し食べられないからという理由で、クラスのお友達から無視をされたら、もし、ちょっと勉強ができないからという理由で悪口を言われたら、心が痛くなって、嫌な気持ちになるのではないでしょうか。しかし、人の気持ちが分からずに、酷いことをしたり、酷いことを言ったりする人がたくさんいます。そういう人たちは、また自分も違いをもっていることに気付いていないのかもしれません。
私たちは、それぞれ違いをもって生きています。みんな顔が違います。体の大きさもそれぞれです。好きなもの嫌いなものも一緒ではありません。考えていることも同じとは限りません。私たちは、「わたし」というたった一人の尊い人間として神さまにつくられました。つまり、私たちには違いがありますが、神さまがそのように私たちをつくられ、それをよしとしてくださるのです。それが、神さまの愛であるといってもよいかもしれません。
イエスさまは、その愛にとどまるようにと言われました。神さまがみんなのことも、お友達のことも、そうでない人のことも、大切に思い、認め、受け入れてくださっていることにとどまるようにと言うのです。それは、第一に、私たちが神さまに愛されていることのメッセージです。しかし、それだけでなく、私たち以外の人もなお神さまに愛されていることに目を向けなさいというメッセージでもあります。私たちが好きになれない人、苦手な人、怖い人、憎い人、そういう人たちもみな神さまによってつくられ、大切にされている人だからです。イエスさまはそのことを示されました。イエスさまは、仲間外れにされている人たち、人間とも思われていないような人たち、馬鹿にされている人たちの友となって、その人たちを大切な人間として受け入れました。ですから、私たちは、そんなイエスさまの愛にとどまれるように祈り求めるものです。そして、違いがあることによって人を傷つけるのではなく、イエスさまの愛にならって平和をつくりあげるものへと変えられていきたいものです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□141番 「ウリエイウッソン」
□108番(改訂版) 「ウリエイウッソン」
準備する物:ハート型の紙を人数分×5枚程度 模造紙ペンなど 筆記用具
1.今の気持ちをハートに書く。1つだけではないと思うので、何枚か書く
2.下の図のように分けた模造紙に喜び・涙・笑い・怒りに分けて貼る
3.どういう時に、そういう気持ちになったか発表する
4.こども讃美歌かなしいことがあっても
5.どんな気持ちの時も神さまのそばにいて、見守ってくださっていること、見守られていることが平和であるということを伝える
・「平和って何ですか?」って聞かれたら何とこたえる?
・「平和じゃないってどういうことですか?」って聞かれたら何とこたえる?
・平和と平和の反対と、それぞれ対応している答えになった?違っていたら何で違ったか考えてみよう
例)対応 平和は争いがない 平和じゃないは戦争 非対応 平和は日常 平和じゃないは戦争
・私の平和と世界の平和は同じ?違う?違うのは何故?
・聖書の平和と私の平和、世界の平和は同じ?違う?