祈りの大切さ、祈りでは本当に今自分にとって必要なものを祈ることが大切です。その祈りの中心であり、基本になる祈りを、イエスは弟子の求めに答えて、弟子たちに教えてくださいました。「主の祈り」と呼んで、わたしたちが日ごとに祈っている祈りです。「わたし」の祈りであると同時に、「わたしたち」の祈りでもあることも心に覚えることが大切です。一番分かり易い祈りで言えば、「必要な糧」を考えるといいでしょう。今のわたしたちは毎日食べるものなどは必要なだけ与えられていますが、この祈りでわたしたちは、必要な糧を十分に与えられていない世界中の多くの人のためにも祈っているのです。
「ひたすら」、「繰り返して」祈る熱心さの大切なこと、自分のためだけでなく、他の人たち、世界中の人たちのために祈る心も必要だということを考えたいものです。
イエスが弟子たちに教えたこの祈りはマタイ6章9以下にも記録されています。これら二つを整えて、教会はその歴史の中で、わたしたちが「主の祈り」と呼んで、日ごとに祈っている祈りとしてきたのです。自分のためばかりでなく、多くの人、すべての人のためにも祈っているのだという心をもち、繰り返して祈りたいものです。
一人でしばしば熱心に神に祈るイエスを見ていたので、一人の弟子が「自分たちにも祈ることを教えてください」とお願いしました。そこでイエスは短い祈りを教えてくださいました。短いものですが、神が崇められ、敬われて、神の国が来て、みんなが神を敬い、信じるようになること、またわたしたち人間の、毎日の生活に関わる祈りです。これが整えられて、「主の祈り」と呼んで、わたしたちは毎日何回でも祈っているのです。ルーテル教会で長い信仰生活をし、弁護士を長く務めておられた方が「主の祈り」について書かれた文を読んだことがあります。その中で特に「日ごとの糧」について書かれた部分にわたしは注目しました。自分たちは食べるもの、飲むもの、着るもの、住むところなど生活に必要なものは一応十分に与えられているのに、まだこのお祈りをしてよいものだろうかと考えた、というのです。そしてハッと気付かされたと続けておられました。ここにある「わたしたち」は自分たちだけでなく、多くの人たち、いや、地球上のすべての人たちだ、この地上ではまだ食べるものがなく、着る物がなくて苦しんでいる人たちも沢山いるのだ、と。だから、やはり、この祈りも繰り返し、心を込めてしっかり祈らなくてはいけないのだと気付かされた、というのです。この祈りを弟子たちに教えてくださったとき、イエスは毎日の生活の中で、人間同士の間でも起こりそうな二つの例をお話しになりました。ひとつは執拗に、繰り返して願うことです。もうひとつは、子供の願いに変なものを与えて応える親はいないということです。そこで強調しなくてはなりません。人間でもそうならば、神はなおさらのこと、そうした願いが本当に必要な願いであれば、必ず応え、祈りをかなえてくださる、ということです。「主の祈り」を一区切りずつ、心を込めて、世界中の人を考えて祈りたいですね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□88番 「かみさまのあいは」
□改訂版 40番 「神様の愛は」
弟子たちに本当の信仰がない事をイエスさまはご存知でした。きっと弟子たちもドキッとしたことでしょう。礼拝の時や教会の中だけでなく、お祈りは、いつどこででも出来るのです。神さまに親しく話しかけるようなお祈りカードを作ってみましょう。
<用意するもの>
紙(好みの色、大きさで。小さな子どもが書く場合は、大きめの方が良い。)
□「神さま、うれしいことがありました。」「神さま、今悲しいきもちです。」「神さまありがとうございます。」「神さま、こわい事があります。」など、はじめの一言をいくつか用意し、その中から今の気持ちにピッタリなものを選ぶ。
□何を祈ってよいのかわからない時は、イエスさまが教えてくださった主の祈りがあります。結びにみんなで主の祈りを唱えても良いでしょう。