その時、その場所、その場面でなにをするのかを、きちんと決めなければなりません。「なんとなく」という生き方は信仰を離れても、適切とは思えません。まして、イエスを家に迎えて、イエスを前にしたら、ということを考えさせられます。
イエスはマルタを叱っているのではありません。「マルタ、マルタ」と心を込めて2度もその名前を呼んでおられることからもそれは分かります。「今一番大事なことはなにか」、「今どうしてもしなくてはならないことはなにか」と問い掛けておられるのです。
12人の男の弟子たち以外にも、イエスに従っていたもっと多くの男の弟子たちがいたでしょう。イエスの教えを多くの人に伝えるために72人を送り出したということも書かれています。同じように、女の弟子たちも大勢いたことでしょう。マルタとマリアもそうでしたし、復活の朝イエスの墓に行ったのも女の弟子たちでした。この福音書の箇所は、それらの女の弟子たちの中でもとりわけイエスが心を込めて教えようとされていた二人のことだったでしょう。マルタは駄目、マリアはよし、という単純な見方でこの場面を理解しない方がいいでしょう。
今この場でなにをしたらよいのか、すぐに分かるときもあります。あれもこれもしなくては、と思って、なにをしたらいいか分からなくなったり、よいことをしているのだけれど、一番すぐにしなければならないことをしていないということもあるものです。イエスの教えを聞くいろいろな人がおり、それぞれいろいろな場面があったでしょうが、その内の注目すべき一場面が、今日の福音書の舞台です。イエスは親しくしていたマルタとマリアという姉妹の家をお訪ねになりました。マルタはイエスのおもてなしを考えて、一生懸命で、いろいろ考えて働きました。女性らしい態度だと言ってもいいでしょう。まずはおもてなし、それからゆっくりお話を聞こうと思ったに違いありません。妹のマリアはそうではありませんでした。イエスを家にお迎えした最初から、その前に座って、イエスがお話しになることをひとつも聞き逃すまいと思って、熱心に耳を傾けていました。この二人の様子を見て、イエスは「マルタ、マルタ」と二度もその名前をお呼びになりました。マリアだけでなく、マルタにも心を掛けておられたからでした。「マルタ、自分と同じようにマリアを働かせようと思ってはいけないよ。今なにをするかを考えると、いろいろあるだろうし、あなたはわたしのもてなしを考えて一生懸命なのはよく分かる。それも決して悪いことではなく、いやありがたいことだけど、今この時、なにをするのが一番大事か考えてご覧。マリアはわたしのもてなしのことなど考えずに、ただひとつのことだけ考えたのだ。私があなたたちの家を訪れるということはこれ一度だけかも知れない。そう思ったら、マリアはこの機会を逃さずに私の話しを聞くのが一番大切だと思ったのだろう。この場でしなくてはいけないことというのは突き詰めれば、ひとつだけなのだ。マリアはそれを選んで、ここに座って、わたしの話しを聞いているのだ。さあ、あなたもここにおいで! マリアと一緒にわたしの話を聞きなさい」。わたしたちにとってイエスのおことばのひとつひとつはそれほど大切なものなのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□51番 「わたしはしゅのこどもです」
□123番(改訂版) 「わたしは主のこどもです」
二人ずつ組んで、5分間ずつ、たとえば「頭をなでてほしい」、「膝枕をしたい」などと、おねだりしましょう。自分のあるがままの気持ちを受け入れてもらうことを、実際に経験してみましょう。
・神さまのみことばを聞いた子どものサムエルのお話をしましょう。
※サムエル記3:2-10、アーチブック「少年サムエル」
・お話を聞いた後、サムエルはどんな子どもだったか、話してみましょう。
・教会のどこかにサムエルの絵があれば、みんなで「サムエル探し」しましょう。絵がない場合は、古いカードやネットでサムエルのイラストをコピーして、どこかにひそかに貼ったり、隠したりして「サムエル探し」をしましょう。
・最後にしばらくの間、みんなで手をつなぎ目を閉じて、心を神さまに向けましょう。リーダーは、しばらくの沈黙の後、静かに今日のみことばをゆっくり読みます。再び、沈黙の後、お祈りをしましょう。
その①
・あなたは、マルタとマリアのどちらに共感しますか。
・イエス様のそばにいると信じて、自分の心の奥の声に耳を傾けてみましょう。
・あるがままの自分と向き合ってみましょう。
その②
今日の聖書でイエス様は、私たちはどんなことよりも神様のお話を聞くこと、お祈りすることが大切だと言っています。自分にとって、大切なものはなんでしょうか?考えてみましょう。家族、友達、勉強、ゲーム、テレビ、お金、お祈りの七つを、自分が大切だと思う順番に並べ替えてください。なぜそのように並べたか、お互いに話してみましょう。