イエス様からの「わたしは去っていくが何かが残る」という約束がされている。互いに愛しあうこと、それもイエス様がされたように神さまの愛を実現していくことだと覚える。
この章は受難の箇所であり、はじまりのヨハネの言葉は「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。人間を愛し続けたイエス様が世を去り、私たちに残されるのは「愛の掟」。
「互いに」愛しあうことは、愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものであるはずだからだということを示す。
「栄光」はヘブライ語で「カボード」、ギリシャ語で「ドクサ」。「カボード」の元の意味は「重さ」で、本来のニュアンスは「そのものの本当の価値」ということのようです。「ドクサ」のほうは「外に現れた輝き」を意味する。イエス様の栄光とは重さであり、輝きだと言える。人間の栄光とは違う。
愛とは真心、真ん中に心があるものですと言った人がいました。これは漢字を分解してみると愛という漢字は真ん中に心が入っているので言葉遊びでそう言ったのです。でも、真ん中とはイエス様のことですから、真ん中、心にイエス様があるのが愛なのです。
今日のイエス様の教えは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という愛の実践の教えです。ただ愛しあいなさい、隣人に親切にしなさいではありません。イエス様がしてくださったように、イエス様の心をもってというところが大切です。「神の愛でもって接しなさい」と言われています。
どんな風にするかもイエス様はご自分の姿を通して教えてくださいました。最後の晩餐と言われる過越祭の前、イエス様は十二人の弟子たちと一緒に食事をされました。この後、十字架にかけら、弟子達のもとを去ることを知っていたイエス様は、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水をくんで弟子たちの足をふき始め、十二人全員の足を洗われます。そして、イエス様は全員の足を洗い終わられた後、このように言います。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と。このように足を洗う行為をあなたがたがこれから行なうことをイエス様は求められたのです。足を洗うこと。それは愛であり、それは仕えるということを具体的に現しているのです。足を洗うことはその家の主人の役目でしたが、その代わりを身分の低い人がしていました。人が嫌がるような働きを他の人に代わって行っていくこと、イエス様の代わりにしていくことが大事なことです。イエス様がされたように。今、この時ならイエス様ならどうされるだろうか。そのことをいつも考えながら心の中にいるイエス様に問いながら愛を実践してきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□51番(1,2) 「わたしはしゅのこどもです」
□100番(改訂版) 「世界のこどもは」
キーワード 互いに愛し合いなさい
たてとよこは進めます。斜めには進めません。
ゴールを目指してください。
・イエス様が愛してくださったようにお互いに愛しあうにはどうしたら良いでしょう。